寺田生家
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(寺田又右衛門から転送)
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 生年不詳 |
死没 | 天正13年(1585年)7月 |
別名 | 通称:又右衛門 |
主君 | 松浦肥前守→織田信長→佐久間信盛(織田信張)→豊臣秀吉→中村一氏→豊臣秀長 |
氏族 | 寺田氏 |
父母 | 父:寺田知正 |
兄弟 | 生家、松浦宗清 |
寺田生家(てらだ なりいえ)は、戦国時代から安土桃山時代かけての武将。寺田又右衛門の称でも知られる。
経歴
[編集]和泉国和泉郡寺田村の国人である寺田知正の長男。松浦安大夫(宗清)は弟。寺田村を領す。
最初、松浦肥前守(光)の家臣だったが、将軍足利義昭を追放した頃ぐらいから織田信長に仕える[1]。元亀年間は岸和田城主であった形跡がある[1]。
天正4年(1576年)7月9日、和泉衆の沼間任世・生家・宗清は、信長により大坂付近の作毛刈取り(所謂、青田刈り)を命じられている[1]。同月13日の第一次木津川口の戦いに参加したが、敗れた[1]。この頃より佐久間信盛の与力とされ、同6年(1578年)8月14日、信盛の命令で信長出陣のための用木・船などを準備している[1]。同8年(1580年)8月の佐久間父子追放の後は、どこの所属になったか明らかではない。
天正9年(1581年)の馬揃えでは、1月23日の時点では和泉衆の1人に挙げられており、和泉衆を率いた蜂屋頼隆の与力とされていたのかもしれないが、紀伊方面を担当した織田信張の配下として、天正10年(1582年)1月の土橋攻めに参加し、泉職坊[2]を討ったので、あるいは信張の与力であったのか[1]。
天正10年6月の本能寺の変以後は、羽柴秀吉に仕え、天正11年(1583年)からは中村一氏の与力。天正13年(1585年)の雑賀攻めで戦功があった[1][3]。しかし同年の四国の役で羽柴秀長の配下で阿波国へ出陣して、7月、一宮城[4]の戦いで討死した[3]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、160頁。
- 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年、265頁。ISBN 4642027432。