富岡定恭
表示
練習艦隊司令官時代の富岡 | |
生誕 | 1854年12月24日 |
死没 | 1917年7月1日(62歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1876 - 1911 |
最終階級 | 海軍中将 |
富岡 定恭(とみおか さだやす、1854年12月24日(嘉永7年11月5日) - 1917年(大正6年)7月1日)は、日本の海軍軍人、華族。最終階級は海軍中将。男爵。
経歴
[編集]信濃国松代城下馬場町に松代藩海防隊隊長・富岡宗三郎定知の長男として生まれる。藩校文武学校を経て、1876年(明治9年)9月、海軍兵学寮(5期)を首席卒業。1878年(明治11年)までイギリス海軍戦艦「オーディシャス」(HMS Audacious)に乗組。海兵教授、艦政局兵器課、英仏派遣、造兵監督官(イギリス)、海軍大学校教官などを歴任。日清戦争では「厳島」副長として参戦。
さらに、「龍田」艦長、海軍兵学校教頭、「八雲」艦長、「敷島」艦長、軍令部第1局長を経て、1903年(明治36年)7月、海軍少将に進級。日露戦争においては早期開戦を求める山座円次郎、秋山真之ら湖月会の一員であった。戦中は海軍兵学校長を務める。その後、練習艦隊司令官を勤め、1907年(明治40年)3月、海軍中将となり、竹敷要港部司令官、旅順鎮守府長官を勤め、1911年(明治44年)12月、予備役に編入された。1914年(大正3年)11月5日、後備役となる[1]。
1914年から1917年(大正6年)まで帝国在郷軍人会副会長を務める。1907年(明治40年)9月、男爵を叙爵し華族となる。
栄典
[編集]- 位階
- 1883年(明治16年)12月25日 - 正七位[2]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 従五位[3]
- 1903年(明治36年)4月20日 - 正五位[4]
- 1907年(明治40年)5月10日 - 従四位[5]
- 1909年(明治42年)5月21日 - 正四位[6]
- 1911年(明治44年)12月20日 - 従三位[7]
- 勲章等
- 1892年(明治25年)5月28日 - 勲六等瑞宝章[8]
- 1895年(明治28年)9月27日 - 単光旭日章・功四級金鵄勲章[9]
- 1901年(明治34年)11月30日 - 勲四等瑞宝章[10]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章・明治三十七八年従軍記章[11]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 男爵 [12]
- 1910年(明治43年)11月28日 - 勲一等瑞宝章
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[13]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 『官報』第680号、大正3年11月6日。
- ^ 『官報』第177号「叙任」1884年2月4日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第5937号「叙任及辞令」1903年4月21日。
- ^ 『官報』第7157号「叙任及辞令」1907年5月11日。
- ^ 『官報』第7770号「叙任及辞令」1909年5月22日。
- ^ 『官報』第8552号「叙任及辞令」1911年12月21日。
- ^ 『官報』第2680号「叙任及辞令」1892年6月6日。
- ^ 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日。
- ^ 『官報』第5525号「叙任及辞令」1901年12月2日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
関連事項
[編集]参考文献
[編集]日本の爵位 | ||
---|---|---|
先代 叙爵 |
男爵 富岡(定恭)家初代 1907年 - 1917年 |
次代 富岡定俊 |