宮地武右衛門
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宮地 武右衛門(みやじ ぶえもん、? – 宝永7年5月12日(1710年6月8日)[1])は、江戸時代前期から中期の捕鯨家[2]。名は元次[1]。
経歴・人物
[編集]山内大膳亮直久の元家臣、土佐国浮津浦の庄屋・野町氏の養子となる[1][2]。
万治3年(1660年)頃、地下人86人による共同経営の浮津組を結成[1]。当時、廃業していた多田氏の津呂組と共に捕鯨業を始め[1]、ザトウクジラ、セミクジラ、イワシクジラなどを捕獲[3]。宮地はその全権を握った[1]。
天和3年(1683年)組員のうち68人を鯨仲買人として立て、捕鯨業と流通販売を分離させた[1][注釈 1]。また紀州熊野より網具を購入した[1]。元禄6年(1693年)幡多郡窪津沖の捕鯨漁場への小釣船の立ち入り禁止を願い出て、これを許可されるなど組の地位を確立した[1]。この間、元禄3年(1690年)には養子の武太夫正守が郷士に取り立てられた[1]。ほか、私財を擲って元禄10年(1697年)法華宗の宮地山中道寺を再興した[1]。
元禄16年(1703年)元の庄屋・野町氏より訴訟を受け庄屋職を返した[1]。同年苗字帯刀を許され以後も捕鯨業に専念し、子孫は幕末まで捕鯨業を続けた[1]。宝永7年(1710年)病没[1]。墓所は室戸市室津中道寺裏山[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 『高知県人名事典 新版』高知新聞社、1999年。ISBN 4875032854。