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安達長景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
安達長景
『蒙古襲来絵詞』の長景
時代 鎌倉時代中期
生誕 未詳
死没 弘安8年11月17日1285年12月14日
改名 長景、智海
別名 弥九郎
官位 従五位下左衛門尉検非違使美濃
幕府 鎌倉幕府 引付衆
主君 宗尊親王惟康親王
氏族 安達氏
父母 安達義景飛鳥井雅経の娘
兄弟 頼景景村泰盛時盛重景顕盛
長景時景公義長井宗秀
宇都宮景綱妻、北条朝直妻、覚山尼
二階堂行忠の娘
宗長
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安達 長景(あだち ながかげ)は鎌倉時代中期の鎌倉幕府御家人安達氏の一族で、父は安達義景安達泰盛の異母弟。

生涯

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弘安元年(1278年)に引付衆美濃。弘安6年(1283年)の延暦寺衆徒らによる禁中乱入事件で六波羅探題が対処できなかった事で、二階堂行忠と共に東使として上洛し、関東申次に面会して鎌倉武士は蒙古への対処で手一杯として赦免を求め、失策の処理にあたった。弘安7年(1284年)、執権北条時宗の死去に伴い出家した。将軍宗尊親王と親しく、その死去にあたって悲しむ歌を詠んでいる。弘安8年(1285年)11月、霜月騒動で泰盛が誅滅され、長景もその与党と見なされ一族皆殺しとなった。

歌人として知られ、歌集に『長景集』がある。信仰では無学祖元参禅している。竹崎季長の『蒙古襲来絵詞』では、泰盛邸で季長が泰盛に馬を拝領した場面に立ち会っている姿が見られる。

甘縄邸で馬を拝領する季長。見守る安達泰盛と長景

偏諱を与えた人物

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脚注

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  1. ^ 続群書類従』所収「遠藤系図」の長綱の注記に「城美濃守烏帽子子也。」とあり、兄の兼俊北条兼時の烏帽子子であった。同系図については、生駒孝臣「鎌倉中・後期の摂津渡辺党遠藤氏について -「遠藤系図」をめぐって-」(所収:『人文論究』52-2・関西学院大学人文学会・2002年、生駒孝臣『中世の畿内武士団と公武政権』<戎光祥研究叢書2>(戎光祥出版、2014年10月)第3章)にて言及がなされている。

関連項目

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