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安藤信昭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
安藤信昭
あんどう のぶあき
生年月日 (1890-03-02) 1890年3月2日
出生地 東京府東京市
没年月日 (1976-12-16) 1976年12月16日(86歳没)
出身校 東京府立園芸学校
前職 宮内省侍従職
所属政党 研究会

日本の旗 貴族院議員
選挙区 子爵議員
在任期間 1932年7月10日 - 1947年5月2日
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安藤 信昭(あんどう のぶあき、1890年明治23年〉3月2日[1] - 1976年昭和51年〉12月16日[1][2])は、日本華族子爵)。貴族院議員、旧磐城平藩安藤家15代当主。旧姓名は有馬頼篤[1]有馬頼寧は実兄[3]

生涯

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伯爵有馬頼万(筑後久留米藩主家当主)の二男[1][4]として東京に生まれる。

子爵安藤信篤磐城平藩主家当主)の養子となり[1]1915年(大正4年)6月、信篤が隠居し家督を相続し[1]、同年7月10日、子爵を襲爵した[1][5]。同年9月3日、皇族・閑院宮載仁親王の第1王女である恭子女王(ゆきこじょおう)と結婚した[6]

1915年(大正4年)東京府立園芸学校(現:東京都立園芸高等学校)を卒業[2]1921年(大正10年)に侍従補となり[2]、以後、侍従や式部官を歴任[2][4]昭和天皇即位の礼に際して大礼使典儀官も務めた[2]

1932年(昭和7年)7月10日に貴族院議員(子爵議員)となり[7]研究会に所属して1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで議員を務めた[2]。この間、内務省委員、内閣委員に在任した[2]

また、日本赤十字社協賛員[4]、同社篤志看護婦会顧問[4]横浜生命保険会社の取締役も務めている[2]。墓所は多磨霊園

プロ野球経営

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実兄の有馬頼寧とともに、草創期の日本プロ野球に深く関わった[要出典]1936年1月17日、有馬頼寧と協力し、旧・西武鉄道(現在の西武鉄道とは別会社)を運営母体としてプロ野球チームの東京セネタースを結成、頼寧がオーナー、信昭が理事長となる[要出典]。同年2月5日結成された社団法人日本職業野球連盟(後の日本野球機構)では、初代副総裁のひとりに就任している[注釈 1][要出典]

家系

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父母
兄弟姉妹
子女

『平成新修旧華族家系大成 上巻』は、実子3男4女を載せる[1]。長男・信敬(のぶゆき、1917年 - 1936年)は早世しており[1]、二男・信和[1]霞会館(旧華族会館)の会員となっている[要出典]

脚注

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注釈

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  1. ^ 総裁は大隈信常大隈重信の養子)、もうひとりの副総裁は松方正雄松方正義の子)である。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 霞会館 1996, p. 73–74.
  2. ^ a b c d e f g h 衆議院 & 参議院 1990, p. 34.
  3. ^ a b c d e f 霞会館 1996, p. 61.
  4. ^ a b c d 人事興信所 1928, p. ア13.
  5. ^ 『官報』第883号、大正4年7月12日。
  6. ^ 『官報』第928号、大正4年9月4日。
  7. ^ 貴族院事務局 1947, p. 40.

参考文献

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  • 人事興信所『人事興信録』(8版)人事興信所、1928年。 
  • 貴族院事務局『貴族院要覧(丙)』(昭和21年12月増訂)貴族院事務局、1947年。doi:10.11501/1653722 
  • 衆議院、参議院『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。 
  • 霞会館平成新修旧華族家系大成』 上巻、吉川弘文館、1996年。 

外部リンク

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日本の爵位
先代
安藤信篤
子爵
磐城平安藤家第3代
1915年 - 1947年
次代
華族制度廃止