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安芸晋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
安芸あき すすむ
安藝 晉
生誕

1873年3月18日
日本の旗 日本 徳島県名東郡徳島出来島町

(現徳島市
死没

(1947-12-15) 1947年12月15日(74歳没)
日本の旗 日本 東京市杉並区西田町

(現東京都杉並区成田西
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1896年 - 1926年
最終階級 陸軍中将
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安芸 晋(あき すすむ、旧字体安藝 晉1873年明治6年〉3月18日[1][2] - 1947年昭和22年〉12月15日[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将功四級[3]

経歴

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徳島県[1][4]名東郡徳島出来島町(現徳島市)の水野静宜の二男として生まれる[2]1878年(明治11年)、先代の安芸弘栄の養子となり、1910年(明治43年)に家督を相続する[5]1896年(明治29年)、陸軍士官学校第7期卒業[1][4]。のち1902年(明治35年)11月に陸軍大学校第16期卒業[1][3]

参謀本部部員、関東都督府陸軍参謀、歩兵第14連隊附、同大隊長、第17師団参謀、歩兵第66連隊附、朝鮮駐箚軍参謀[5]1916年(大正5年)11月に陸軍歩兵大佐京都連隊区司令官。1918年(大正7年)7月に歩兵第38連隊長、同年12月に第1師団参謀長を経て、1921年(大正10年)2月に陸軍少将・歩兵第22旅団長(第11師団)に任官[1][3][4]シベリア出兵では旅団長としてザバイカル付近の警備に当たった[1]

その後は、1923年(大正12年)8月に第14師団司令部附を経て、1926年(大正15年)3月2日に陸軍中将に昇進と同時に待命、同月22日に予備役に編入した[1][3]

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g 『日本陸軍将官辞典』18頁。
  2. ^ a b c 鳴門市史編纂委員会 1982, 809頁.
  3. ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』127頁。
  4. ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』126頁。
  5. ^ a b 人事興信所 1937, ア1頁.
  6. ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」1頁。

参考文献

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