安芸晋
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安藝 晉 | |
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生誕 | (現徳島市) |
死没 |
1947年12月15日(74歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1896年 - 1926年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
安芸 晋(あき すすむ、旧字体:安藝 晉、1873年〈明治6年〉3月18日[1][2] - 1947年〈昭和22年〉12月15日[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級[3]。
経歴
[編集]徳島県[1][4]名東郡徳島出来島町(現徳島市)の水野静宜の二男として生まれる[2]。1878年(明治11年)、先代の安芸弘栄の養子となり、1910年(明治43年)に家督を相続する[5]。1896年(明治29年)、陸軍士官学校第7期卒業[1][4]。のち1902年(明治35年)11月に陸軍大学校第16期卒業[1][3]。
参謀本部部員、関東都督府陸軍参謀、歩兵第14連隊附、同大隊長、第17師団参謀、歩兵第66連隊附、朝鮮駐箚軍参謀[5]。1916年(大正5年)11月に陸軍歩兵大佐・京都連隊区司令官。1918年(大正7年)7月に歩兵第38連隊長、同年12月に第1師団参謀長を経て、1921年(大正10年)2月に陸軍少将・歩兵第22旅団長(第11師団)に任官[1][3][4]。シベリア出兵では旅団長としてザバイカル付近の警備に当たった[1]。
その後は、1923年(大正12年)8月に第14師団司令部附を経て、1926年(大正15年)3月2日に陸軍中将に昇進と同時に待命、同月22日に予備役に編入した[1][3]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所 編『人事興信録 第11版 上』人事興信所、1937年 。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 鳴門市史編纂委員会『鳴門市史 本編』鳴門市、1982年 。