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安芸弘恒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

安芸 弘恒(あき ひろつね、弘治3年(1557年)?~天正10年(1582年)?)は、安土桃山時代武将安芸国虎の長男。名は重宗とも。幼名・千寿丸。官位は飛騨守、通称は彦左衛門、十太夫。

生涯

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永禄12年(1569年)に父が長宗我部元親との八流の戦いで死亡。阿波国に逃れて三好氏の家臣・矢野備後の娘を妻とし彌の矢野又六と名乗ったとも、赤沢宗伝の婿もしくは家臣になったともいう。

天正10年(1582年)、中富川の戦いで戦死。

なお、弘恒の消息には諸説あり、大友宗麟を頼って豊後国に逃れたとも、彦左衛門と名を変えて帰農し、阿波板野郡蔵佐谷で新田開拓に精を出し、寛永14年(1637年3月21日に死去したとも伝えられる。現在、板野郡で安芸姓、安藝姓を名乗る家は弘恒の子孫という伝説がある。

脚注

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