コンテンツにスキップ

安羅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
安羅
各種表記
ハングル 안라
漢字 安羅
発音 アラ
日本語読み: あら
ローマ字 ara
テンプレートを表示
三国時代の朝鮮半島 左は韓国の教科書で一般的な範囲(375年頃)、右は日本の教科書で一般的な範囲(4~5世紀半ば)。半島西南部の解釈には諸説がある。 三国時代の朝鮮半島 左は韓国の教科書で一般的な範囲(375年頃)、右は日本の教科書で一般的な範囲(4~5世紀半ば)。半島西南部の解釈には諸説がある。
三国時代の朝鮮半島
左は韓国の教科書で一般的な範囲(375年頃)、右は日本の教科書で一般的な範囲(4~5世紀半ば)。半島西南部の解釈には諸説がある。
朝鮮歷史
朝鮮の歴史
考古学 朝鮮の旧石器時代
櫛目文土器時代 8000 BC-1500 BC
無文土器時代 1500 BC-300 BC
伝説 檀君朝鮮
古朝鮮 箕子朝鮮
辰国 衛氏朝鮮
原三国 辰韓 弁韓 漢四郡
馬韓 帯方郡 楽浪郡

三国 伽耶
42-
562
百済
高句麗
新羅
南北国 熊津都督府安東都護府
統一新羅
鶏林州都督府
676-892
安東都護府
668-756
渤海
698-926
後三国 新羅
-935

百済

892
-936
後高句麗
901-918
女真
統一
王朝
高麗 918-
遼陽行省
東寧双城耽羅
元朝
高麗 1356-1392
李氏朝鮮 1392-1897
大韓帝国 1897-1910
近代 日本統治時代の朝鮮 1910-1945
現代 朝鮮人民共和国 1945
連合軍軍政期 1945-1948
アメリカ占領区 ソビエト占領区
北朝鮮人民委員会
大韓民国
1948-
朝鮮民主主義
人民共和国

1948-
Portal:朝鮮

安羅(あら)は、3世紀から6世紀中頃にかけて、現在の韓国咸安郡に存在していた小国家。任那伽耶を構成する国の1つであった。

概要

[編集]

安羅の名前が初めて登場するのは、広開土王碑文である。これによれば、400年頃の朝鮮半島には、任那加羅や安羅など多くの国(加羅諸国)があり、この2国が代表的な国で、侵入してきた高句麗軍に反撃するほどの強力な軍事力があった。また、これらの加羅諸国は、倭と協力して、高句麗、新羅と対立していた[1]

日本書紀』での初見は、神功皇后49年(369年か)春3月条である。これによると、神功皇后に遣わされた荒田別鹿我別によって、他の加羅諸国と共に平定されたという[2]

継体天皇23年3月(529年か)には、近江毛野が遣わされ、百済からは将軍君尹貴、麻那甲背、麻鹵などが派遣され、新羅からは位の高い人は派遣されず、夫智奈麻礼、奚奈麻礼などが派遣され、毛野の「詔勅」を伝えられたという[3]

欽明天皇2年4月(541年か)には、安羅の次旱岐夷呑奚、大不孫、久取柔利は任那日本府吉備臣(欠名)とともに百済に行き、任那復興についての聖明王の詔書を聴き受けたという[4]

同年7月には、百済が任那日本府と新羅が計略を通わしているという情報を手に入れたため、前部奈率鼻利莫古、奈率宣文、中部奈率木刕眯淳、紀臣奈率弥麻沙らが安羅に派遣され、任那の再建について話し合われた。また、任那日本府の河内直や移那斯麻都の排除が主張された[5]

欽明天皇5年3月(544年か)条によれば、安羅人は日本府を天(父)と思っており、「百済本記」によれば、任那は安羅を父と、日本府を本と思っていたとされる[6]。また、印支弥とともに任那日本府の構成員であった阿鹵旱岐(あろかんき)は「安羅の旱岐」であると考えられている[7]

欽明天皇13年5月8日(552年か)には、百済、加羅、安羅は中部德率木刕今敦、河内部阿斯比多などを日本に派遣して「高句麗と新羅は臣国(わたしの国)と任那を滅ぼそうとしているため、兵を借りて、先に高句麗と新羅を攻めたいと思います」と主張した[8]

欽明天皇23年(562年か)1月には、他の任那構成国とともに新羅に滅ぼされた[9]

任那日本府との関係

[編集]

任那日本府に関する記事は、説話的な要素を含んだ雄略天皇紀を除くと、欽明2年から15年、(541年から554年)の間のみに見られる[10]。この頃には、任那の内、金官地方は新羅に併合されていたため、任那日本府の実態は「安羅日本府」であったと考えられる[10]。また、「任那日本府」の古訓は「ミマナノヤマトノミコトモチ(任那倭宰)」であり、実態を表す言葉としては、「在安羅諸倭臣等(アラニハベルモロモロノヤマトノマエツギミタチ)」が正しいと考えられる[10]

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ 加藤周一編『世界大百科事典』(平凡社、2007年)
  2. ^ 日本書紀神功皇后49年春3月条
  3. ^ 日本書紀継体天皇23年春3月条
  4. ^ 日本書紀欽明天皇2年夏4月条
  5. ^ 日本書紀欽明天皇2年秋7月条
  6. ^ 日本書紀欽明天皇5年春3月条
  7. ^ 日韓共同歴史研究会「日韓共同歴史研究報告書」(第1分科会、2010年)https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2010/10/1-allj.pdf
  8. ^ 日本書紀欽明天皇13年夏4月条
  9. ^ 日本書紀欽明天皇23年春正月条
  10. ^ a b c 諸田正幸「任那日本府は存在したのか」『争点日本の歴史2 古代編I』(1990年)pp.137-139

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]