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安居喜八

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安居 喜八(やすい きはち、1883年明治16年〉1月18日[1] - 没年不詳)は、日本実業家近江貯蓄銀行等、多くの会社の重役を務めた。資産家滋賀県多額納税者[2]公選初代・彦根市長家督相続前は、喜三郎を名乗る[2]

略歴

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1883年(明治16年)1月、滋賀県犬上郡彦根町で、資産家の先代・安居喜八の長男として生まれる。弟は大阪市東区瓦町1-20に居住した紙商・安居武藏(やすい むさし)[3]。1887年(明治20年)家督を相續し、前名・喜三郞を改めた[2]

近江貯蓄銀行百三十三銀行・川北電氣企業・黑部川電力ではそれぞれ取締役を務め、近江絹糸紡績では監査役を務めた。紙商・安居(名)代表社員[2]

また、公選初代・彦根市長を務めた。

親族の安居喜造が設立委員長として中心的役割を果たした彦根高等商業学校(後身は滋賀大学経済学部)設立につき、多額の寄附をした[4][5]。座談会「彦根高商創立当時を語る」(昭和11年12月5日土曜日午後2時50分より校長室〈当時の校長は矢野貫城〉にて開催)に来賓として出席、創立当時を語った[4]

玄宮園・八景亭

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彦根城玄宮園近江八景になぞらえられており、中の亭屋を「八景亭」と呼ぶ。八景亭は、明治初年1868年)に喜八が徳川幕府より払い下げを受けたが、明治19年1896年)、再び井伊家が買い戻し、井伊家の所有のもとで料理旅館業に使用させた[6]

初代公選・彦根市長

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1947年4月5日彦根市長選挙で、安居喜八は当選した。以下は、選挙結果である[7]

  1. 安居喜八(無所属、新人、7,414票)
  2. 谷口銕治郎(無所属、新人、5,142票)
  3. 田井中信一(無所属、新人、3,579票)
  4. 川口元次郎(無所属、新人、947票)

家族・親族

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(出典[2]

父・喜八、母・いと(慶応元年生まれ、滋賀、村瀨忠平二女)、妻・うた(明治19年生まれ、滋賀、外池品治郞長女)、 男・喜三郞(明治39年生まれ)。

尚、二男・英三(明治45年生まれ)、長女・繁(大正4年生まれ)三男・憲三(大正8年生まれ)、二女・富子(大正11年生)あり。

弟・吉藏(明治21年生まれ)は同妻・シヅノ(明治30年生まれ、兵庫、大澤孝司妹)を伴い分家、同・孝次郞(明治19年生まれ)叔母・壽賀(明治9年生まれ)もまた各分家せり。

安居家は、現当主で8代目にあたり、戦後まで紙問屋を営んでいたという。屋号は不明であるが、ノレンには「安」がデザインされている[8]

脚注

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  1. ^ 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、268頁。
  2. ^ a b c d e 安居喜八(第8版〈昭和3(1928)年7月〉の情報)『人事興信録』データベース|名古屋大学大学院法学研究科 2022年4月閲覧
  3. ^ 安居武藏 (第8版 [昭和3(1928)年7月 の情報) 『人事興信録』データベース 名古屋大学大学院法学研究科] 2022年4月閲覧
  4. ^ a b 滋賀大学経済学会「〈資料紹介〉滋賀大学経済経営研究所調査資料室報(9)」『彦根論叢』第351号、滋賀大学経済学会、2004年11月、159-181頁、ISSN 0387-5989CRID 1050001202785782144。「p.162-163 より「…大正八年二月六日、運動の為東上不在中に無理矢理に、彦根町長に選挙され、在任中は高商設置のため始終奔走し、翌年十二月、高商の新築の着工を見て辞任したゝめ、「高商町長」のニックネームがつけられたなどのエピソードも…」」 
  5. ^ 昭和5年時の平塚分四郎・彦根町長や彦根高等商業学校の矢野貫城校長らの座談会記事紹介、「寄付多く彦根へ誘致」の記述も|滋賀彦根新聞 2017年11月22日水曜日 2022年4月閲覧
  6. ^ 玄宮園・楽々園について|滋賀県立大学人間文化学部生活文化学科人間関係専攻細馬研究室 2022年4月閲覧
  7. ^ <滋賀県>彦根市長選挙 選挙ドットコム 2022年4月閲覧
  8. ^ 「城下町彦根の町なみ?歴史的景観の調査と保存修景?」調査報告書|事業名:観光資源の調査及び保護思想の普及高揚|団体:日本観光振興協会|日本財団 2022年4月閲覧

外部リンク

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