宇都宮龍山
宇都宮 龍山[1][2][3](宇都宮 竜山[4][5]、うつのみや りゅうざん[1][4]、うつのみや りょうざん[2]、享和3年3月12日[4](1803年5月12日) - 明治19年(1886年)8月11日[4])は、幕末から明治時代の教育者。本姓は原田氏[4]、名は靖[4][2]、字は好直[4]、通称は清記[4][2]。龍山は号で、別号に竹雪山房[4][2]。清記白茅とも称した[5]。
来歴
[編集]伊予国喜多郡新谷村(現愛媛県大洲市)で新谷藩藩士・原田東一郎の子として生まれる[2][5]。幼名は宗也[5]。幼い頃に父を亡くす[1]。
12歳のときに大洲藩(新谷藩の親藩)藩儒の山田東海に学ぶ[2]。16歳のときに大洲藩の勧めで江戸に出て古賀侗庵に学び[2][1]、のち駿河の山梨稲川に学ぶ[2]。このころに母親が手足が不自由になる難病にかかり、以降長く母の介抱にあたる[1]。その親孝行ぶりは広く知られていた[1]。
帰郷して新谷藩藩校・求道軒教授になる[4]。ただ藩の意見と合わなかった[2]。天保9年(1838年)母親をなくし[1]、同年脱藩する[4][2]。内子・松山と居を移し[2]、翌天保10年(1839年)備後国尾道(現広島県尾道市)に移して[1]、当地で橋本竹下らと交わる[5]。
備後国三原浅野家浅野忠助に招かれて郷校・明善堂の学頭となる[4][1]。三原浅野家の政策にも参与し[4]、(明治維新前に)開港を献策しこれが後の三原市糸崎港となる[2][1]。明治元年(1868年)三原を退いて尾道に移り、私塾・朝陽館を開き子弟を育成した[1]。また三原・尾道の学区取締を務めた[3]。
明治19年(1886年)没。墓は尾道慈観寺にある[2]。浄土寺に「宇都宮龍山翁之碑」、三原糸崎の住吉神社に「松浜新港碑」がある[5]。大正13年(1924年)贈従五位[2]。教え子に橋本吉兵衛[5]、沼田良蔵(三原市立三原小学校初代校長)[3]、利光鶴松などがいる。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k “郷土三原ゆかりの人たち 宇都宮龍山(うつのみや りゅうざん)”. 三原市教育委員会. 2025年1月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o “愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行)”. 愛媛県生涯学習センター. 2025年1月18日閲覧。
- ^ a b c “三原沼田家文書 幕末明治期 広島の漢学者の書 資料展示会” (PDF). 広島大学. 2025年1月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m “宇都宮竜山”. コトバンク. 2025年1月18日閲覧。
- ^ a b c d e f g 鷹橋明久「橋本竹下『竹下詩鈔』の序文、跋文について」(PDF)『尾道文学談話会会報』第8号、尾道市立大学芸術文化学部日本文学科、2018年2月、27-30頁、2025年1月18日閲覧。