宇佐タミエ
うさ タミエ 宇佐 タミエ | |
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生誕 | 北海道釧路市 |
死没 | 2011年6月30日(満69歳没) |
死因 | 脳出血 |
住居 |
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国籍 |
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民族 | アイヌ |
時代 | 昭和 - 平成 |
団体 | レラの会、レラ・チセ、ハルコロ |
影響を与えたもの | 宇佐照代 |
活動拠点 | レラ・チセ、ハルコロ |
子供 | 宇佐照代 |
親 | 西村ハツヱ |
受賞 | アイヌ文化奨励賞(2008年) |
宇佐 タミエ(うさ タミエ、? - 2011年〈平成23年〉6月30日)は、日本のアイヌ文化伝承者。東京都内に存在したアイヌ料理店「レラ・チセ」の創業メンバーの1人。母はアイヌ団体「レラの会」初代会長の西村ハツヱ[1]、三女はアイヌ文化伝承家の宇佐照代。
生涯
[編集]北海道釧路市で誕生し、同市で育った[2]。アイヌの家庭の生まれであり、アイヌの多く住む土地で育ったものの、この頃には自身がアイヌであることを強く意識することはなかった[2]。
40歳の頃に、離婚を機に子供たちと共に上京し、いくつもの仕事をかけ持ちして、一男四女を育て上げた[3]。また、首都圏のアイヌ団体「レラの会」に母や妹が携わっていたことで[4]、自身も同会に、子供たちと共に参加した。この会でアイヌの歌や踊りを学ぶことで、次第にアイヌ団体での活動に没頭するようになった[3][5]。
1994年(平成6年)、レラの会によるアイヌ料理店レラ・チセが開店すると、アイヌ料理を人々に伝承するために、仕込みを受け持った[3]。関西や九州での交流会にも足を伸ばし、アイヌ料理やアイヌ音楽を通じて、アイヌ文化を広める活動にも取り組んだ[6][7][8]。これらの精力的な活動が首都圏のアイヌたちに大きな影響を与えたと評価され、2008年(平成20年)、公益財団法人アイヌ民族文化財団よるアイヌ文化奨励賞を受賞した[9]。
レラ・チセが経営難で閉店した後、2011年5月、三女の宇佐照代と共に東京都に「ハルコロ」として店を再開した[3]。その頃には先述の五子に加えて孫9人、曾孫1人に恵まれていた[3]。ハルコロ開店前日には家族たち囲まれ、自らオハウ(アイヌ料理の汁物)を振舞った[3]。
しかしその約1か月後の同2011年6月30日、脳出血により満69歳で急逝した[3][10]。ハルコロは宇佐照代が母の遺志を継いで、経営を続けている[3]。
脚注
[編集]- ^ 「西村ハツヱさん死去」『朝日新聞』朝日新聞社、2005年4月15日、東京朝刊、35面。
- ^ a b レラの会 1997, pp. 92–93
- ^ a b c d e f g h 高波淳「アイヌ民族の誇り、料理に 母の志継ぎ、店きりもり 新宿「ハルコロ」」『朝日新聞』2011年9月30日、東京夕刊、18面。
- ^ レラの会 1997, p. 103
- ^ レラの会 1997, p. 104
- ^ 「東流西流 アイヌ料理で心の触れ合い」『毎日新聞』毎日新聞社、2004年3月2日、福岡地方版、19面。
- ^ 「料理や歌通しアイヌ知ろう 22日、近江八幡で催し」『読売新聞』読売新聞社、2004年7月17日、大阪朝刊、30面。
- ^ 「アイヌ料理で交流を 市民50人味わい楽しむ 多摩川河畔」『北海道新聞』北海道新聞社、1997年11月4日、全道朝刊、27面。
- ^ “アイヌ文化奨励賞(個人)宇佐タミエ” (PDF). 公益財団法人アイヌ民族文化財団 (2008年). 2025年3月7日閲覧。
- ^ 村田亮「こころ揺らす 第7部番外編 ウタリの「家」集う笑顔 東京の料理店「ハルコロ」祖母と母から思い継ぐ 常連客は「夢」語り合う」『北海道新聞』2018年2月7日、全道朝刊、13面。
参考文献
[編集]- レラの会『レラ・チセへの道 こうして東京にアイヌ料理店ができた』現代企画室、1997年5月6日。ISBN 978-4-7738-9704-3。