孝淑睿皇后
表示
孝淑睿皇后 | |
---|---|
清朝皇后 | |
| |
別称 | 孝淑端和仁荘慈懿敦裕昭粛光天佑聖睿皇后 |
出生 |
乾隆25年8月24日 (1760年10月2日) |
死去 |
嘉慶2年2月7日(1797年3月5日)(36歲) |
埋葬 | 昌陵 |
配偶者 | 嘉慶帝 |
子女 |
道光帝 荘静固倫公主 |
氏族 | 喜塔臘氏(ヒタラ氏) |
父親 | 和爾経額(ヘアジンアオ) |
母親 | 王佳氏(ワンギャ氏) |
孝淑睿皇后(こうしゅくえいこうごう、満州語:ᡥᡳᠶᠣᠣᡧᡠᠩᡤᠠ
ᠨᡝᠮᡤᡳᠶᠠᠨ
ᠰᡠᠩᡤᡳᠶᡝᠨ
ᡥᡡᠸᠠᠩᡥᡝᠣ 転写:hiyoošungga nemgiyan sunggiyen hūwangheo)は、清の嘉慶帝の皇后。満洲正白旗の出身。姓は喜塔臘氏(Hitara hala)。内務府総管兼副都統の和爾経額(ヘアジンアオ)の娘。
生涯
[編集]和爾経額(ヘアジンアオ)とその2番目の継妻である王佳氏の間に生まれた。
乾隆39年(1774年)に、乾隆帝の皇子永琰(後の嘉慶帝)に嫁ぎ、嫡福晋(正室)となった。夫との間には下記の1男2女を出産する。夫が義父の乾隆帝からの譲位をうけて、清朝第7代皇帝嘉慶帝となると、皇后となり、景仁宮に居住するようになる。その2年後の嘉慶2年(1797年)に、病没した。
皇帝の最初の正室(追尊ならびに継室を除く皇后)から皇帝の生母となった人物は清代において、孝淑睿皇后だけである。(抜擢されて側室から)正室になり、続けて国母となった皇后はほかに道光帝の全貴妃(諡して孝全成皇后、咸豊帝の生母)がいる。すなわち、宣宗・文宗の父子二代が皇后を生母としている。
子女
[編集]伝記資料
[編集]- 『清史稿』