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婦女新聞

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婦女新聞』(ふじょしんぶん)は、1900年明治33年)5月10日福島四郎によって東京・神田三崎町で創刊され、1942年昭和17年)2月(2176号)まで続刊された女性週刊誌。当初はわずか4ページの週刊新聞として発刊されたが、後にA4判16ページの雑誌型に改められた。

概略

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私立中学の国語教師だった福島が26歳のとき、自己資金500円で創刊し、たった1人で編集・営業の仕事をこなした。しかし印刷代の原価計算も知らない福島が、わずか500部の見込み部数しかないのに、いきなり1万部を印刷してしまった、という逸話も残っている。しかし第10号を出したころには、早くも1,000人の固定読者を獲得するに至り、以後、独力で奮闘し、着々と地盤を固めた。

『婦女新聞』は、新進気鋭の女性たちの投書機関として果たした役割も大きかった。投書家の中には、歌人石上露子米谷照子原阿佐緒などがいた。

草創期には20代だった下中弥三郎島中雄三といった記者が編集部で働いている。2人とも後々まで婦人問題に深い理解を示し、婦人の政治的、職業的、恋愛的自由などに関する啓蒙活動に尽力することになったのも福島の影響と思われる。

1982年から1985年にかけて、43年間のすべてを復刻した『婦女新聞 全68巻』が刊行された[1]

主宰者

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福島四郎(1874-1945)は小野藩士・福島元嘉の四男として小野町 (兵庫県)で生まれる[1]。11歳で10歳上の長姉を亡くし、この姉の不幸な結婚がのちの婦人問題研究のきっかけとなる[1]。14歳で松岡約斉の家塾で漢籍を学び、21歳で上京して大和田建樹の書生となり、東京専門学校に通う[1]埼玉県第一中学校教員となるも十代で患った中耳炎の影響で聴覚が衰え、教員生活に不安を感じていた26歳のとき、福沢諭吉の『女大学評論』と出合い、婦人問題に生涯を捧げることを決意、翌年大正天皇が成婚時に一夫一婦制を公言したことを記念して『婦女新聞』を創刊[2]。1902年に結婚し、妻の貞子(1882-1975、小田原藩士・蜂屋昌悦の長女、成女高等女学校卒)を会計係に43年間新聞の発行を続け、女性の経済的自立の重要性を説いた[2]。長男の福島昌夫は中央公論社員、三男の福島杉夫は青山学院大学名誉教授(ドイツ文学)、娘婿に経済学者の西沢基一西沢吉治の長男で、西沢隆二松丸志摩三の兄)がいる[3][1]

参考文献

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  • 『婦人界35年』 福島四郎の追想記 1935年刊 
  • 下中彌三郎事典』 1965年6月12日発行 下中彌三郎伝刊行会編集 平凡社発行、非売品
  • 『あゝ島中雄三君』 1942年9月16日発行 編者・森長次郎 中央公論社発行、非売品
  • 『婦女新聞』(復刻)、不二出版、1982-1985年。
  • 『婦女新聞記事・執筆者索引 1900(明治33)年〜1942(昭和17)年』不二出版、1985年。

出典

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  1. ^ a b c d e 『婦女新聞 全68巻』配本案内不二出版、1988
  2. ^ a b 婦人問題懇話会会報 (38) 婦人問題懇話会 1983-06、p56-57
  3. ^ 福島四郎人事興信録 第14版 下、1943

外部リンク

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