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姥塚古墳 (笛吹市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
姥塚古墳

墳丘・石室開口部
別名 御場塚
所在地 山梨県笛吹市御坂町下井之上941
(南照院境内)
位置 北緯35度38分4.95秒 東経138度39分29.85秒 / 北緯35.6347083度 東経138.6582917度 / 35.6347083; 138.6582917座標: 北緯35度38分4.95秒 東経138度39分29.85秒 / 北緯35.6347083度 東経138.6582917度 / 35.6347083; 138.6582917
形状 円墳
規模 直径40m
高さ10m
埋葬施設 片袖式横穴式石室
築造時期 6世紀末葉
史跡 山梨県指定史跡「姥塚」
地図
姥塚古墳の位置(山梨県内)
姥塚古墳
姥塚古墳
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姥塚古墳(うばづかこふん)は、山梨県笛吹市御坂町下井之上にある古墳。形状は円墳。山梨県指定史跡に指定されている(指定名称は「姥塚」)。

概要

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南照院本堂(右)・姥塚古墳(左奥)

甲府盆地南東部、金川扇状地の左岸扇端部に築造された大型円墳である[1]。現在は慈眼山南照院境内に位置し、石室内には聖観音像が祀られる。これまでに測量調査のほか、南側周溝部の発掘調査が実施されている。

墳形は円形で、直径約40メートル・高さ10メートルを測る[1]。埋葬施設は右片袖式の横穴式石室で、南西方向に開口する。現存石室長17.54メートルを測る非常に大型の石室であり、山梨県では最大規模かつ東日本でも屈指の規模になる。盗掘に遭っているため副葬品は詳らかでない。

築造時期は、古墳時代後期の6世紀末葉[1](または6世紀後半[2])頃と推定される。南側には同時期の集落遺跡として二之宮・姥塚遺跡が広がる[1]。甲斐地方では古墳時代前期に甲斐銚子塚古墳甲府市下曽根町)が築造されて以降、中期に大型古墳は築造されていないが、後期には本古墳のほか加牟那塚古墳万寿森古墳(いずれも甲府市千塚)といった大型石室墳が築造されており、特殊な様相を呈する[1]。なお伝承では、山姥が大男と競争して造ったため「姥塚」といい、聖徳太子が甲斐に入ったときに愛馬が倒れて葬ったので「御馬塚(おんばづか)」というとする[3]

古墳域は1965年昭和40年)に山梨県指定史跡に指定されている[2]

遺跡歴

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  • 1965年昭和40年)5月13日、山梨県指定史跡に指定[2]
  • 1966年(昭和41年)、墳丘・石室の測量調査[1]
  • 1992年平成4年)、南照院庫裏建設に伴う南側周溝部の発掘調査[1]

埋葬施設

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石室パース図
石室展開図

埋葬施設としては右片袖式横穴式石室が構築されており、南西方向に開口する。石室の規模は次の通り[1]

  • 石室全長:17.54メートル(現存部)
  • 玄室:長さ9メートル、幅3.3メートル(奥壁部)・3メートル(玄門部)、高さ4.2メートル
  • 羨道:幅2.4メートル(玄門部)、高さ2.5メートル

石室の石材は1-1.5メートルの自然石で、乱石積みによって構築される[1]。玄室の奥壁は2段積みで、下段は2枚組、上段は1枚石からなる[1]。天井石は玄室部で5枚、羨道部で4枚(開口部の1枚は崩落)[1]。玄室と羨道の境は、幅0.9メートル・高さ約2メートルの方柱状柱石で区画される[1]

なお、南照院境内には大型の石材が点在することから、羨道はさらに5-6メートル長くなるとする説がある[1]

文化財

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山梨県指定文化財

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  • 史跡
    • 姥塚 - 1965年(昭和40年)5月13日指定[2][4]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 姥塚古墳(平凡社) 1995.
  2. ^ a b c d 山梨の文化財ガイド(データベース)史跡03 > 姥塚(山梨県ホームページ)。
  3. ^ 史跡説明板。
  4. ^ 姥塚【県指定】(笛吹市ホームページ)。

参考文献

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  • 史跡説明板(山梨県教育委員会・御坂町教育委員会・慈眼山南照院設置)
  • 原田道雄「姥塚古墳」『日本古墳大辞典東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607 
  • 「姥塚古墳」『日本歴史地名大系 19 山梨県の地名』平凡社、1995年。ISBN 4582490190 

関連項目

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井之上古墳出土 陶棺
國學院大學博物館展示。

外部リンク

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