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奥重政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
奥 重政
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄3年(1560年
死没 慶長17年(1612年
改名 俊重、重政[注釈 1]
別名 弥太郎、弥兵衛尉[注釈 1]
墓所 修禅尼寺(和歌山県紀の川市
氏族 奥氏
父母 父:奥義弘、母:津田算長の娘
兄弟 重政、範重、将監、利重[3]
小嶋与三の娘[4]
重吉、重俊、快賢、吉政[3]
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奥 重政(おく しげまさ)は、戦国時代から江戸時代初めにかけての武士。津田流・自由斎流の砲術家[5]

生涯

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奥氏は紀伊国那賀郡荒川荘(安楽川荘、現在の和歌山県紀の川市桃山町・那賀郡粉河町[6])を拠点とした一族[7]15世紀初め頃には同荘の公文を務めていた[8][7]。重政の父・義弘は小倉荘(岩出市和歌山市[9])の津田算長の娘(津田算正の妹)を妻にしたとみられ、義弘は岳父から砲術を習ったとされている[4][注釈 2]

永禄3年(1560年)、重政は奥義弘の嫡男として誕生した[1]。「奥家譜」によると、天正期(15731592年)に織田信長羽柴秀吉と戦ったといい[10]、「奥家系図抜書」や『紀伊続風土記』には、織田信長が高野山を攻めた際に、父・義弘と共に高野山に味方したと記されている[11][12]。天正18年(1590年)に家督を継ぎ、文禄5年(1596年)、氏家行広に鉄砲組組頭として仕えた[10]慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に属して敗れ、浪人となった[10]

重政は津田算正とその弟の自由斎から砲術を学び、数年で奥旨を窮めたという[1][注釈 3]。『本朝武芸小伝』には、重政は自由斎の数少ない門人の一人で、砲術の奥義を神のように得たとあり、『武術流祖録』にも、重政は津田流の数少ない門人の中で傑出していたとある[13][14]。また、津田流の砲術伝書のうち、「津田算長 - 算正 - 自由斎 - 重長」と伝えるものには重政の名がなく、自由斎から奥弥兵衛(重政)に継承したとするものには算正の名が見えないことから、重政は主に自由斎から学んだと考えられる[15]

重政は後の紀州藩主・浅野幸長に砲術を伝え、慶長4年(1599年)に自由斎流の秘伝を授けている[16]。幸長以外の大名では谷衛友にも砲術を伝授した[17]。このほか、美濃国多羅城主の関一政の家臣だった鹿伏兎盛良が門弟にいる[18]。盛良は砲術の蘊蓄を極めて奥姓を許されたが、その後外科医学の道に進み、江戸幕府に直仕した[18][19]

慶長6年(1601年)、浅野幸長が甲斐から紀伊に転封された[10]。重政は砲術を伝授したものの、幸長とは主従関係になかったとみられ[16]、那賀郡野上荘原野村海南市)に隠棲している[10]。慶長17年(1612年)、重政は死去し、現在の紀の川市桃山町にある修禅尼寺に葬られた[10]

重政の嫡男・重吉は、浅野幸長が甲斐にいた頃に浅野家に仕官した[20]。浅野家の「旧臣録」では、慶長5年(1600年)のこととされる[21]。当初の石高は300石で、鉄砲組頭として従軍した大坂冬の陣で功を立て、800石に加増された[21]元和5年(1619年)に浅野長晟安芸国に移されるとそれに従い、安芸で砲術を広めたという[21]。江戸時代中期から幕末にかけての安芸の砲術家として奥猛雅・満雅・典雅・邦雅の一族が知られるが[21][22]、重吉の子孫と考えられる[21]。また、重政の二男・重俊は紀伊に残り、紀州奥家を存続させた[21]

系譜

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  • 父:奥義弘(1532–1590[4]) - 奥延之の嫡男[4]
  • 母:津田算長の娘
  • 正室:小嶋与三の娘 - 与三は山口荘(和歌山市[23])の住人[4]
    • 長男:奥重吉(?–1642[24]) - 浅野家臣。芸州奥家の祖とされる[21]通称は清蔵、弥兵衛[24]
    • 二男:奥重俊(1594–1663[21]) - 紀伊に住む。通称は源太(郎)[21]。大坂の陣の際、重政の叔父(延之の四男)の杢之助政友が大坂方にいたが、重俊は豊臣秀頼からの誘いを断ったという[25]。この後、慶長20年(1615年)に政友は戦死している[1]。なお、政友を重俊の弟とし、兄弟そろって大坂籠城に加わったという説もある[26]
    • 三男:快賢 - 高野山の僧[21]
    • 四男:奥吉政 - 浅野家臣[21]。通称、仙兵衛[21]文化初年にまとめられた「旧臣録」では重政の二男とされる[21][27]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 「奥家譜」によると、初め弥太郎俊重、後に弥兵衛尉重政と名乗ったという[1]。文禄3年(1594年)付の奥俊重作相売渡状(「奥家文書」)に「奥弥兵衛俊重」という署名があり[2]、弥太郎俊重、弥兵衛俊重、弥兵衛重政という変遷が考えられる[1]
  2. ^ 「奥家譜」などには、義弘は津田算正の娘を娶り「岳父算正」から砲術を学んだとあるが、天文元年(1532年)生まれの義弘が享禄2年(1529年)生まれの算正から娘を娶るとは考えにくい[4]。「津田家系譜」には津田算長の娘で算正の妹が「奥弥兵衛室」になったと記されているが、この弥兵衛は義弘(市郎左衛門尉、出羽守)の誤りと考えられ、義弘は算長の娘を妻にしたと推測される[4]
  3. ^ 「奥家譜」には、天正3年(1575年)に「外祖父津田監物算正及自由斎算長」から砲術を学んだとあるが、重政の外祖父である算長は永禄10年(1567年)に死去したとされることから、重政に砲術を教えたのは伯父(または叔父)に当たる津田算正と自由斎であると考えられる[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f 太田 2010, p. 32.
  2. ^ 和歌山県史編さん委員会 1975, p. 791; 太田 2010, p. 32.
  3. ^ a b 太田 2010, p. 34.
  4. ^ a b c d e f g 太田 2010, p. 31.
  5. ^ 太田 2010, p. 36.
  6. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1985, p. 93.
  7. ^ a b 太田 2010, pp. 30–31.
  8. ^ 応永20年(1413年)5月22日付安楽川荘公事銭支配状写 (和歌山県史編さん委員会 1975, p. 785)。
  9. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1985, p. 248.
  10. ^ a b c d e f 太田 2010, p. 33.
  11. ^ 和歌山県史編さん委員会 1975, pp. 795–796.
  12. ^ 太田亮姓氏家系大辞典第一巻・ア―カ』姓氏家系大辞典刊行会、1934年、898頁。全国書誌番号:47004572https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130845/523 
  13. ^ 国書刊行会 編『武術叢書国書刊行会、1915年、81、154頁。全国書誌番号:43014303https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/945805/50 
  14. ^ 太田 2005, p. 12.
  15. ^ 太田 2005, pp. 14–15; 太田 2010, p. 32.
  16. ^ a b 松平 1977, p. 33; 太田 2010, p. 33.
  17. ^ 松平 1977, pp. 33–35.
  18. ^ a b 松平 1977, p. 36.
  19. ^ 寛政重脩諸家譜 第三輯』國民圖書、1923年、630頁。全国書誌番号:21329093https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082714/324 
  20. ^ 太田 2010, pp. 33, 35.
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m 太田 2010, p. 35.
  22. ^ 広島市役所 編『新修広島市史 第四巻 文化風俗史編』広島市役所、1958年、292頁。全国書誌番号:49001367 
  23. ^ 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 1985, p. 1042.
  24. ^ a b 太田 2010, pp. 33–35.
  25. ^ 太田 2010, pp. 32, 35.
  26. ^ 柏木輝久『大坂の陣豊臣方人物事典』北川央 監修(2版)、宮帯出版社、2018年、227–228頁。ISBN 978-4-8016-0007-2 
  27. ^ 林保登 編『芸藩輯要 附藩士家系名鑑』入玄堂、1933年、第3編25、33頁。全国書誌番号:46085719 

参考文献

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  • 太田宏一「津田流砲術と奥弥兵衛について」『和歌山市立博物館研究紀要』第19号、2005年。 
  • 太田宏一「津田流砲術と奥弥兵衛(続)」『和歌山市立博物館研究紀要』第25号、2010年。 
  • 「角川日本地名大辞典」編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 30 和歌山県』角川書店、1985年。ISBN 4-04-001300-X 
  • 松平年一「自由斎流の鉄砲師奥弥兵衛」『日本歴史』第354号、1977年。 
  • 和歌山県史編さん委員会 編『和歌山県史 中世史料 一』和歌山県、1975年。全国書誌番号:73021652