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太田きよみ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

太田 きよみ(おおた きよみ、1953年5月15日 - )は、日本女優歌手

本名、曽根 喜代美(旧姓は太田)[1]。身長164cm[1]。現在は「曾根 きよ美(そね きよみ)」名義で歌手活動を続ける。

来歴

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1970年、ドラマ『プレイガール』のゲストとして、篠雪子名義でデビュー。数話のゲスト出演を経た後、1971年に同番組のレギュラーとなるが、既に桑原幸子が同番組に出演しており、名前の「ゆきこ」が重複するため、本名をもじった太田きよみに改名する。

プレイガール』降板後、橘 モナ(たちばな モナ)の芸名で歌手デビュー[1]。きっかけはあるパーティで勝新太郎カフスボタンを拾って届けたら、その場で勝にスカウトされたことで[1]、勝の肩入れも相当で、デビュー曲「涙のサンバ」のときは、宣伝パンフレット用写真のカメラマンを自ら買って出た[1]。二曲目の「私は蜘蛛の糸」は、当時、映画小説講談にまで普及した"ポルノブーム"に便乗して[1]、当時はまだ20歳だったが[1]、ベッドでの情事を歌い、"ポルノ歌謡""ポルノ歌手"なるキャッチフレーズがついた[1]。事務所の移籍に伴い山崎 一美(やまさき かずみ)、さらに元の太田きよみと改名。歌のレッスンの先生で[1]作曲提供者の曽根幸明と不倫の末に略奪婚し[2]、休業。現在は日本歌謡芸術協会を中心に歌手活動を継続している。

2019年4月19日放送分の『爆報! THE フライデー』では改めて曽根との結婚が不倫の末の略奪婚であったと話し、結婚から1年後に直腸がんになった義母の介護をすることとなったこと、脳梗塞になった曽根の介護も後に行ったことなどを明かした。太田は償いとして介護を行ったと話していたが、曽根が離婚後も前妻に対して十分な仕送りを与えていたため遺産相続に関しては「私たちは印税は結構です」と前妻から告げられており、前妻は本当に曽根を愛して義母や曽根の介護を必死に行っていた太田を労っていた[2]

娘はシンガーソングライターの曽根由希江

主な出演作品

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テレビドラマ

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篠雪子名義
  • プレイガール東京12Ch / 東映
    • 第81話「男殺し用心棒」(1970年) - 圭子
    • 第86話「ミステリー 生きていた花嫁」(1970年) - りつ子
    • 第89話「傷つけながら愛しあい」(1970年) - 華恵
    • 第92話「女は裸でグァム島航路」(1971年) - 乗客
    • 第98話「おんな命の賭けどころ」(1971年) - 秀芳
    • 第100話「夢のグァム島殺人事件」(1971年) - 冴子
    • 第102話「父は過去に何をしていた」(1971年) - 富士子
  • 仮面ライダー(1971年、毎日放送 / 東映) - 第4話「人喰いサラセニアン」 - 宮下雪江
太田きよみ名義
橘モナ名義

映画

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オリジナルビデオ

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舞台

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  • 沢たまき追悼公演 プレイガール『ING』(2004年)

音楽

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シングル

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橘モナ名義(日本コロムビア
  • 涙のサンバ わかれみち(1973年 / CD-177)
  • 私は蜘蛛の糸 予期せぬ出来事(1973年10月 / P-309)
山崎一美名義(テイチク
  • 風知草(かぜしりぐさ) 港の子守唄(1976年2月25日 / SN-1496)
  • 結婚 悲しみは空の彼方に(1976年7月25日 / RS-14)
太田きよみ名義(エルボンレコード)
  • 別れて下さい 愛したままで(1979年3月 / BON-1020)

オムニバスアルバム

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その他の活動

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  • プレイガールオフィス・トークショー「プレイガール伝説」(2000年)

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 「注目 ついに歌謡界にも… ポルノ歌謡をうたう歌手が現れた! 橘モナ・20歳 『気分を出そうと、ベッドに横になってうたったけど…』と、苦心を披露」『週刊平凡』1973年9月6日号、平凡出版、172–173頁。 
  2. ^ a b 人気作曲家・曽根幸明さんと不倫14年後の略奪婚、遺産相続問題で前妻と対面も… 日刊スポーツ 2019年4月19日 20:45(2019年12月5日閲覧)