大高元恭
大高 元恭(おおだか もとやす、宝暦8年10月16日(1758年11月16日) - 文政末年)は蘭学の草創期に活躍した日本の医師、蘭学者。本草学者。箸尾元恭とも名乗ったが、高階氏であったため大高と称した。元喬と記載されることもある。初名は和三郎、次に宗温と名乗り、その後清福庵宗粛と号する。字は知道。
略歴
[編集]大坂で延寿院流の医業を営んだ父大高養哲(箸尾師明・箸尾高春の六世孫)と母・周(柴田氏)のもとに生まれた。本草物産家として知られ、寛政から文化・文政頃には大阪の医師番付で高く評価されていた[2] 。寛政版の『浪華郷友録』その他にも醫家、物産家として名前が挙げられている[3]。本草学者としての学識に加えて、蘭学にも造詣が深く、橋本宗吉の代表作『西洋医事集成宝凾』の校閲を行った。学医として当時の浪花で五本の指に入る存在として知られた[4][1]。嘉永5年(1852年)成立、安政元年(1854年)刊の『西洋学家訳述目録』にその名が見え、西洋の医学書の和訳、『醫方集要』全十巻を著したことでも知られる。[5]
江戸後期の大博物学者で画人である木村蒹葭堂と極めて親密な交流を結んでおり、木村節庵、北村桃庵、藤井鴻平らとならんで、もっとも蒹葭堂と仲が良かった医家の一人であった。『蒹葭堂日記』からは、安永年間から享和年間まで一貫して、月に数度訪れて語らい合わないことがないほど、蒹葭堂の元へと日参していた元恭の姿が窺われる。本草学者としては、蒹葭堂に一番深く関わった人物であった。[2]
妹に大高土沙がおり、懐徳堂学主中井履軒の息子で、水哉館館主であった中井柚園に嫁したが(『近世学芸論考-羽倉敬尚論文集-』鈴木淳編、明治書院)[6]、二十五歳の若さで没している。元恭は能登の豪商文人一族岩城氏の、次男善之助を娘婿としており[7][3]、その子箸尾元市は鴻池家の別家となっている(安岡重明『前期的資本の変質過程:鴻池研究の一節』、宮本又次編『大阪の研究』清文堂. 1970年 第四巻p480)[8]。
曾孫に日本人として初の本格的な和英辞典 を作り、清楽研究やピクトリアリスム の研究でも知られ、『冩眞術百科大辞典』を著わした箸尾寅之助 がいる。
評価
[編集]『西洋医事集成宝凾』に校閲者として関わっていることから、蘭学者としての印象が強いが、もともと伝統的な本道医学にも通暁しており、当時毎年発表されていた名医の番付では、橋本宗吉よりもはるかに上位に位置づけられている。諸侯から仕官の誘いもしばしばあったが、加賀藩での嘱託医官の仕事をのぞけば、町医としての処世を貫いた。本草家として医師の番付に登場することも多く、博物学的本草学と蘭学を当時の経済的に豊かな大阪の文化背景のなかで探究したディレッタント(英,伊:dilettante、好事家。狭い専門の枠に捕らわれず、愛好家として幅広い興味を持つ者)であり、一代の碩学である。
著書
[編集]訳書
[編集]『醫方集要』十巻
『泰西雷説 地震説』[5]
脚注
[編集]- ^ 東大医方、西学医方に分けた寛永末年の医師の見立て番付。ちなみに元恭の後に登場する中環は、同じく橋本宗吉の門下で、緒方洪庵の蘭学の師中天游であり、この番付では元恭のほうが高い評価を得ている 。
- ^ 寛政12年の『蒹葭堂日記』[1]九月の前半部分だけで、元恭が六回も蒹葭堂の元を訪れているのが分かる。またもともと元温であった彼が元恭・宗粛と名乗っているのも、蒹葭堂が孔恭・世粛と名乗っているのに倣ったものであるとも考えられる。オランダ語を読めないものの、アタナシウス・キルヒャーの著作まで所蔵していた蒹葭堂にとって、博物学に強い関心をもち、蘭学者でもある元恭が心強い協力者であったことは疑い得ない。
- ^ 当時岩城氏・塩屋は能登から長崎を廻って大阪に荷を降ろして往き来する貿易に従事しており、こうした商活動が本草物産家としての元恭に、またひいては交友である蒹葭堂や橋本宗吉らに与えた影響についても、考慮されるべきであろう。
- ^ 京都大学の富士川文庫に残存するこの書物は、丹波元簡の校閲で、加州医官・大高元喆(テツ)、知道の著とされている。天下の書府と呼ばれた加賀藩の漢籍を含め、夥しい数の支那の医書や本草書を総覧して目録化したものである。元喆は尾張の蘭学者、野村立栄が江戸の噂話を採取して著わした『免帽降乗録』に、「翻訳ノ方ヨシ」と紹介されている、加賀藩の大高玄哲(元哲とも表記。喆は哲の異字体)と同一人物。『西洋学家訳述目録』の記述に誤謬が含まれていなければ、大高知道を名乗っていることからも、この書物は元恭のものであると考えるのが妥当であろう。そもそも元恭が能登の岩城家から娘婿を迎えていることを思えば、加賀藩に長く留まった時期があったことも十分に考えられるのであり、その場合この両者は同一人物であることになる。ちなみに元恭の父の名は、大高養哲であった。
- ^ 石川県立図書館に現存。第十二代加賀藩主・前田斉広公の命により、大高元哲が文化八年に翻訳したものとされているが、オランダ語の原書は見つかっていない。雷が電気であることを説き、大気中の硫黄と硝酸が摩擦により火花を発するものが雷であるとの説を紹介した。地震についても、硫黄と硝酸のまさつによる爆発を原因に挙げている。文化八年は橋本宗吉が『エレキテル究理原』『エレキテル訳説』を著わした年でもあり、彼らの間で、この時期電気学についての関心が高まっていたことが窺われる。また蒹葭堂はキルヒャーが地質学や火山現象について著わした『地下世界』を所持していたとされ、それが彼の地震現象についての関心に影響したことも考えられよう。彼はこの書物のなかでラテン語についての知識も披瀝しているが、正確なものである。硫黄と硝酸の説については、ショメールの生活百科辞典“Huishoudkundig Handboek voorden Stedeling en Landman; of Chomel, Huishoudelijk Woorden Verkort”(Amsterdam,1800‐1803)にも同様の記述が見られるが、この書物が幕府の翻訳事業として馬場佐十郎貞由らによって翻訳されたのは文化11年のことである。
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 『洋学史事典』(日蘭学会編、雄松堂出版、1984年)
- 『大阪蘭学史話』(中野操著、思文閣出版、1979年)
- 『大阪医師番付集成』(中野操監修、古西義麿解説・索引、思文閣出版、1985年)
- 『本朝医家著述目録』(編者ならびに発行人 板原七之助、1935年)
- 『西洋学家訳述目録』(桐園先生閲・穂亭主人輯、1852年成立、1854年刊)
- 『木村蒹葭堂のサロン』(中村真一郎、新潮社、2000年)
- 『蘭学資料『免帽降乗録』の小察』(杉本つとむ、国文学研究第52集、昭和49年)
- 『木村蒹葭堂―なにわ知の巨人』(大阪歴史博物館、大阪市立博物館編、思文閣出版、2003年) 。大型図録
- 『医譚――木村蒹葭堂をめぐる医家たち』(中野操、医譚 昭和34-39年、杏林温故会)
外部リンク
[編集]- 喎蘭新譯地球全図[10]