大関増興
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永6年2月17日(1709年3月27日)[1] |
死没 | 明和7年6月26日(1770年7月18日)[1] |
改名 | 丑之助(幼名)[2]→増興 |
別名 | 増明、帯刀[2] |
戒名 | 護国院殿義賢一貞大居士/護国院義賢一貞[1] |
墓所 | 栃木県大田原市の大雄寺 |
官位 | 従五位下・伊予守[2]、能登守[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重→家治 |
藩 | 下野黒羽藩主 |
氏族 | 大関氏→水野氏→大関氏 |
父母 | 父:大関増恒 |
兄弟 |
大助、岩(北条氏貞正室)、増興、増満、 小出英孫、加藤泰広正室、 平野長賢正室(後金田正峯継々室)、女子、秋元長継、大田原清位室、増山正柱室 |
妻 | 正室:六郷政晴娘・万里 |
子 |
増備、増副(次男)、 慈法院(分部光庸正室)、大嶋義周室、 瓦林嘉成室ほか |
大関 増興(おおぜき ますおき)は、江戸時代中期の大名。下野国黒羽藩7代藩主。
宝永6年(1709年)2月17日、6代藩主・大関増恒の次男として生まれる。幼児期は水野氏を称していたが、享保6年(1721年)2月に世子となった[1]。享保7年(1722年)11月28日、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗に御目見し、元文3年(1738年)3月25日に父の隠居により跡を継ぐ[1]。元文4年(1739年)12月16日に従五位下・伊予守に叙任される。寛保4年(1744年)2月8日、大阪加番に任じられる[1]。
宝暦13年(1763年)10月10日、長男・増備に家督を譲って隠居し[1]、明和元年(1764年)には能登守に遷任される。
明和7年(1770年)6月26日、江戸藩邸にて死去。享年62。
系譜
[編集]父母
- 大関増恒(父)
正室
- 万里 ー 六郷政晴の娘
子女