大聖護国寺
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大聖護国寺 | |
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所在地 | 群馬県高崎市八幡町675-1 |
位置 | 北緯36度20分28.1秒 東経138度56分59.3秒 / 北緯36.341139度 東経138.949806度 |
山号 |
神通山 神齢山(旧称) |
院号 |
遍照院 悉地院(旧称) |
宗旨 | 新義真言宗 |
宗派 | 真言宗豊山派 |
本尊 | 不動明王 |
創建年 | 建保3年(1215年) |
開山 | 定弘 |
正式名 | 神通山遍照院大聖護國寺 |
法人番号 | 8070005002135 |
大聖護国寺(だいしょうごこくじ)は、群馬県高崎市八幡町にある真言宗豊山派の寺院である。東京の音羽護国寺の前身である[1]。
歴史
[編集]寺伝では、建保3年(1215年)、定弘の建立とされる[2]。定弘は、山城国醍醐寺で天皇の病気平癒の祈祷を行い、祈祷の本尊である不動明王像を下賜されたのち、当地に下向してこの寺を開基したのだという[2]。
寛永年間まで碓氷八幡宮(現在の上野國一社八幡宮)の別当寺で、現在も、上野國一社八幡宮の東に隣接している[3]。
寛文元年(1661年)、後に江戸幕府5代将軍となる徳川綱吉が、上野国館林藩に封ぜられると、綱吉の母・桂昌院は、帰依していた僧・亮賢を招き、上野国高崎の地にある当寺の第24世住職(碓氷八幡宮の別当職)に充てた[4]。
延宝8年(1680年)、綱吉が将軍となると、翌延宝9年、亮賢に幕府の有する高田御薬園の地を与えて一寺を開かせた[5]。 その寺は、当寺の名(大聖護国寺)を継いで、「神齢山 悉地院 大聖護国寺」と号したが、これが東京の音羽護国寺である[6]。なお「悉地院」という院号も、当寺の院号であったことが明徳元年(1390年)書写の経奥書に見える[7]。
脚注
[編集]- ^ 太子山天明寺ホームページ
- ^ a b 『角川日本地名大辞典 群馬県』568頁、『群馬県の地名』430頁
- ^ 『群馬県の地名』430頁
- ^ 『江戸東京の寺社609を歩く』140頁、『日本国誌資料叢書 武蔵』965頁、『群馬県の地名』430頁
- ^ 『日本名刹大事典』246頁、『江戸東京の寺社609を歩く』140頁、『日本国誌資料叢書 武蔵』965頁
- ^ 『江戸東京の寺社609を歩く』140頁、「天海と隆光」158頁
- ^ 『角川日本地名大辞典 群馬県』568頁
参考文献
[編集]- 『日本歴史地名大系 第10巻 群馬県の地名』(平凡社、1987年)
- 角川日本地名大辞典編纂委員会 編『角川日本地名大辞典 10 群馬県』(角川書店、1988年)
- 槙野修著、山折哲雄 監修『江戸東京の寺社609を歩く 山の手・西郊編』(PHP研究所、2011年) ISBN 9784569797830
- 太田亮 『日本国誌資料叢書 武蔵』(磯部甲陽堂、大正14年(1925年))
- 圭室文雄 編『日本名刹大事典』(雄山閣出版、1992年)
- 林亮勝「天海と隆光」木内堯央ほか『高僧 その人と教え』(大正大学出版部、1983年)