大宮劇場
種類 | 事業場 |
---|---|
市場情報 | 消滅 |
略称 | 久榮座 (旧称) |
本社所在地 |
日本 〒603-8222 京都府京都市北区旧大宮通北大路下ル紫野下築山町74番地 |
設立 | 1908年11月1日 |
業種 | サービス業 |
事業内容 | 映画の興行 |
関係する人物 | 寺田富之助 |
特記事項:略歴 1909年10月31日 久榮座開館 1929年 映画館化 1940年前後 大宮劇場と改称 1953年8月 映画館に戻る 1961年 ストリップ劇場に業態変更 1969年 A級京都と改称 1976年8月 閉館 |
大宮劇場(おおみやげきじょう)は、かつて存在した日本の映画館である[1]。1909年(明治42年)10月31日、京都府愛宕郡大宮村(のちの京都市上京区、現在は北区域)の旧大宮通に芝居小屋久榮座(きゅうえいざ、新漢字表記久栄座)として開館[2][3]、1929年(昭和4年)には映画館化[4][5]、1940年(昭和15年)前後に「大宮劇場」と改称、実演舞台に戻る[1][6][7]。第二次世界大戦後、映画館としても営業したが[8]、1961年(昭和36年)にストリップ劇場に転身、1969年(昭和44年)にはA級京都(えいきゅうきょうと)と改称した[1]。
沿革
[編集]- 1909年10月31日 - 久榮座として開館[1][2][3]
- 1929年 - 常設活動写真館に業態を変更(映画館化)[4][9][10][11]
- 1940年前後 - 大宮劇場と改称、実演舞台に戻る[1][6]
- 1953年8月 - 映画館に戻る[1][8]
- 1961年 - ストリップ劇場に業態を変更[1]
- 1969年 - A級京都と改称[1]
- 1976年8月 - 閉館、跡地に「大宮劇場駐車場」[1]
データ
[編集]概要
[編集]1909年(明治42年)10月31日、京都府愛宕郡大宮村(のちの京都市上京区、現在は北区域)の旧大宮通北大路下ル西側に芝居小屋久榮座として開館する[1][2][3]。同日、新築落成式が挙行され、四代目實川延之助一座の『夜討曾我』(作河竹黙阿弥)で幕を開けた[1][2]。『上京 史蹟と文化』(1992年第3号)には「明治四十一年十一月」とあるが、1909年10月30日付の『京都日出新聞』、同年11月1日付の『大阪朝日新聞京都附録』にそれぞれ開館を報じる記事が掲載されている[3]。
大宮通の一筋西の旧大宮通(大徳寺通)にあるこの場所は、雲林院とも[2]大宮頭とも[4]呼ばれた地域である。1918年(大正7年)4月1日、大宮村の一部である同地域が上京区に編入されている。1927年(昭和2年)12月23日付の『大阪朝日新聞京都版』記事によれば、京都府監督課建築係の劇場・活動写真館(映画館)・寄席の建築の調査を行った結果として、同館は「近く改築を要し」と指摘された[12]。昭和初期に京都の市街地を精力的に紹介した大京都社(姉小路東洞院西入ル)の西村善七郎はその著書の『大京都』において、四条通の御旅町(寺町 - 河原町間)、烏丸通、寺町通(とくに丸太町 - 三条間)、三条通(とくに寺町 - 木屋町間)、河原町通(四条付近)、そして堀川京極(西堀川通の丸太町 - 中立売間)、西陣京極(千本通の中立売 - 今出川間)、七条通(とくに河原町 - 千本間)とならべて、同館が存在した五辻以北の大宮通を挙げている[13]。同地域には、同館のほか、待鳳館(のちの轟館、1930年前後開館)、西陣帝国館(のちの大宮東宝映画劇場、1920年開館)、西陣座(のちの富貴映画劇場、1902年開館)等が存在した[1][14]。
1929年(昭和4年)には常設活動写真館に業態を変更(映画館化)した[4][9][10][11]。当時の同館の経営は寺田富之助の個人経営、支配人は渡邊経市、興行系統は東亜キネマおよび河合映画製作社であった[4]。1936年(昭和11年)には、松竹キネマの二番館となり、封切館より1週遅れで上映する映画館となった[1]。1940年(昭和15年)前後に大宮劇場と改称、浪曲等の実演舞台に戻った[1][15][16]。第二次世界大戦中は、東日出夫一座らがしばしば舞台に上がった[6]。
戦後も当初は、実演舞台であった[7]。1947年(昭和22年)には近衛八重子一座等が出演した記録が残っている[7]。1953年(昭和28年)8月にはふたたび映画館としての興行を行った[8]。1955年(昭和30年)9月1日、北区が上京区から分区した。1961年(昭和36年)、ストリップ劇場に業態を変更した[1]。この時代の同館は、ダンサーの星かおるが、「特出し」を日本で初めて行ったことで知られた[17]。1969年(昭和44年)には、「久榮座」をもじってA級京都と改称した[1]。山城新伍・池玲子が主演し、1975年(昭和50年)5月24日に公開された映画『喜劇 特出しヒモ天国』(監督森崎東、製作東映京都撮影所)では、実名で同館が登場し同館を舞台に物語が展開、ロケーション撮影も行われた[18]。
1976年(昭和51年)8月、閉館した[1]。跡地は更地にされて、現在は「大宮劇場駐車場」である[1]。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 思い出の西陣映画館 その二、『上京 史蹟と文化』1992年第3号、上京区役所、1992年10月15日付、2013年10月9日閲覧。
- ^ a b c d e f 京都府[1971], p.131.
- ^ a b c d 国立[1999], p.276, 279.
- ^ a b c d e f g 総覧[1930], p.585.
- ^ 昭和7年の映画館 京都市内 37館、中原行夫の部屋(原典『キネマ旬報』1932年1月1日号)、2013年10月9日閲覧。
- ^ a b c 国立[2004], p.548, 563, 586, 592.
- ^ a b c 国立[2005], p.337, 349, 354.
- ^ a b c d 総覧[1953], p.102.
- ^ a b 年鑑[1925], p.473.
- ^ a b 総覧[1927], p.679.
- ^ a b 総覧[1929], p.283.
- ^ a b 国立[2002], p.570.
- ^ 西村[1928], p.69-70.
- ^ 思い出の西陣映画館 その一、『上京 史蹟と文化』1992年第2号、上京区役所、1992年3月25日付、2013年10月9日閲覧。
- ^ 年鑑[1942], p.10-69.
- ^ 年鑑[1943], p.472.
- ^ 米川[2000], p.503.
- ^ 喜劇 特出しヒモ天国 - KINENOTE, 2013年10月9日閲覧。
参考文献
[編集]- 『日本映画年鑑 大正十三・四年』、アサヒグラフ編輯局、東京朝日新聞発行所、1925年発行
- 『日本映画事業総覧 昭和二年版』、国際映画通信社、1927年発行
- 『大京都』、西村善七郎、大京都社、1928年11月1日発行
- 『日本映画事業総覧 昭和三・四年版』、国際映画通信社、1929年発行
- 『日本映画事業総覧 昭和五年版』、国際映画通信社、1930年発行
- 『映画年鑑 昭和十七年版』、日本映画協会、1942年発行
- 『映画年鑑 昭和十八年版』、日本映画協会、1943年発行
- 『全国映画館総覧 1953』、時事映画通信社、1953年発行
- 『京都府百年の年表 9 芸能編』、京都府立総合資料館、京都府、1971年
- 『近代歌舞伎年表 京都篇 第5巻 明治40年-明治45年(大正元年)』、国立劇場近代歌舞伎年表編纂室、八木書店、1999年7月 ISBN 4840692270
- 『集団語辞典』、米川明彦、東京堂出版、2000年3月 ISBN 449010538X
- 『近代歌舞伎年表 京都篇 第8巻 大正12年-昭和3年』、国立劇場調査養成部調査資料課近代歌舞伎年表編纂室、八木書店、2002年4月 ISBN 4840692300
- 『近代歌舞伎年表 京都篇 第10巻 昭和十一年-昭和十七年』、国立劇場調査養成部調査資料課近代歌舞伎年表編纂室、八木書店、2004年5月 ISBN 4840692327
- 『近代歌舞伎年表 京都篇 別巻 昭和十八年-昭和二十二年補遺・索引』、国立劇場近代歌舞伎年表編纂室、八木書店、2005年4月 ISBN 4840692335
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]画像外部リンク | |
---|---|
大宮劇場駐車場 2012年撮影 |
- 思い出の西陣映画館 その二 - 『上京 史蹟と文化』(1992年第3号)