コンテンツにスキップ

大國神社 (伊勢崎市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大國神社

拝殿
地図
所在地 群馬県伊勢崎市境下渕名2827
位置 北緯36度18分1秒 東経139度15分0.4秒 / 北緯36.30028度 東経139.250111度 / 36.30028; 139.250111 (大國神社)座標: 北緯36度18分1秒 東経139度15分0.4秒 / 北緯36.30028度 東経139.250111度 / 36.30028; 139.250111 (大國神社)
主祭神 大国主命
社格 式内社(小)
郷社
創建 (伝)第11代垂仁天皇9年
本殿の様式 三間社流造
別名 第五姫宮・五護之宮
例祭 10月22日[1]
テンプレートを表示
全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML
鳥居

大國神社(おおくにじんじゃ、大国神社)は、群馬県伊勢崎市境下渕名(しもふちな)にある神社式内社であり、旧社格郷社

「第五姫宮(だいごひめのみや)」「五護之宮(ごごのみや)」とも[1]

祭神

[編集]

主祭神

配祀神

  • 日葉酢媛命 (ひばすひめのみこと) - 第11代垂仁天皇皇后。
  • 渟葉田瓊入媛命 (ぬはたにいりひめのみこと)
  • 真砥野媛命 (まとのひめのみこと)
  • 薊瓊入媛命 (あざみにいりひめのみこと)
  • 竹野媛命 (たかのひめのみこと)
    いずれも丹波道主王命の娘。垂仁天皇15年に丹波国穴太郷から勧請・合祀されたといい、「第五姫宮」「五護之宮」「五后宮」の別名はこれら5神に由来するという[3]

合祀神

歴史

[編集]

創建

[編集]

社伝(明和年間(1764年-1772年)の大国五護宮縁起)・『伊勢崎風土記』によると、第11代垂仁天皇9年に風雨不順によって人々が苦しめられていたため、天皇は百済車臨を東国に派遣した[1][3]。車臨は当地に至り御手洗池で手を洗う大国主命と出会い、国家の難の平定を願った[3]。すると大国主命の姿はなくなり、その跡に淵が出来た(「渕名」の地名由来)[3]。その後天皇は車臨を賞し、当社を祀らせるとともに当地を与えたと伝えられる[3]。また垂仁天皇15年9月には、丹波国穴太郷から五媛の宮を勧請・合祀したという[3]

一説に当社創建について、『上野国神名帳』の佐位郡項に「大国玉明神」と「郡玉明神(くにたまみょうじん、非現存)」の名が見えることから、国玉を「国司の神」、郡玉を「郡司の神」とみる説がある[4]。そして前者にあたる当社は、当地の郡司が「上毛野国造」の栄誉称号を与えられた際(後述)、新たに創建されたと指摘される[4]。この説では、檜前部老刀自(ひのくまべのおいとじ、檜前君老刀自)[原 1]が「上毛野佐位朝臣(かみつけのさいのあそん)」を賜姓[原 2]、のち「本国国造(上毛野国造)」の称号を与えられた記事から[原 3]、檜前部一族が佐位郡司であったと推測される[4]。併せて、当社北西方にあり佐位郡衙跡とも推測される十三宝塚遺跡(じゅうさんぽうづかいせき)との関係性も指摘されている[4]

なお『和名抄』に見える「佐位郡淵名郷」は、当地に比定される[5]

概史

[編集]

当社に関して、国史に記載はない[4]。社伝によると神護景雲元年(767年)、勅を奉じた佐位采女が社殿を修造したという[3]

延喜式神名帳』では「上野国佐位郡 大国神社」と記載され、式内社に列している。「佐位郡」と記載されるが、この郡は佐波郡(明治に佐位郡・那波郡を合併)の前身にあたる。

『上野国神名帳』では、一宮本に鎮守12社の12番目に「従一位大国大明神」、群書類従本では同じく鎮守12社の12番目に「従一位大国玉大明神」とあるが、総社本では鎮守10社に記載はない[4]。また、3本とも佐位郡項で「従一位大国玉明神」と記載する[4]。ただし、鎮守項・佐位郡項の両社を同一と見なすことには異論もあり、後者を当社として『延喜式神名帳』所載の神社を別に見る説もある[1]

明治7年(1874年)、近代社格制度において郷社に列した[3]。また明治42年(1909年)に神饌幣帛料供進神社に指定された[3]

神階

[編集]
  • 従一位 (『上野国神名帳』鎮守項) - 表記は「大国大明神」(一宮本)、「大国玉大明神」(群書類従本)。総社本に記載はない[4]
    注)一宮本・総社本・群書類従本とも佐位郡項では「従一位大国玉明神」の記載があるが、鎮守項と同一とするかには議論がある[1]

境内

[編集]
社殿

本殿は三間社流造で、千鳥破風軒唐破風付、銅板葺[3]江戸時代寛政5年(1793年)の造営という[3]。幣殿は昭和5年(1930年)の造営。拝殿は間口五間・奥行三間半で、文化元年(1804年)の造営[3]

また、境内には石幢(せきどう:仏教の石塔の一種)が立つ。この石幢は「御手洗の石燈籠」とも呼ばれる[3]室町時代延徳2年(1490年)の銘があり[6]、付近の御手洗池畔から出土したと伝えられる[3]。総高は2.38メートルで、角石の台座の上に竿塔・中座・火袋・屋蓋・相輪と積み重ねられている[3]室町時代の作風が見られ[3]、市の重要文化財に指定されている。

当社東北方には大国主命が手を洗ったという御手洗池跡が残る[1]。明治4年(1907年)に合祀されるまで、その地には御手洗神社が鎮座していた[1]

摂末社

[編集]
  • 浅間神社
[祭神] 木華開耶姫命[7]
太平洋戦争後に一村一社神社合併の政府命令が解除された後、御手洗沼に無神となっていた旧御手洗神社の社殿に、木華開耶姫命を祀り、浅間神社と呼びれるようになった。そして、いつの頃かその社殿が大國神社に移築、合祀された。[7]
  • 渕名天満宮
[祭神] 菅原道真公[8]
昭和55年(1982年)7月に社殿を建立し、渕名天満宮を遷宮した。[8]
  • 御手洗神社
[祭神] 罔象女[9]
伊勢崎市八寸町の御手洗沼(みたらせぬま)に鎮座していた御手洗神社を明治40年3月25日に合祀した。[10]
  • 八坂神社
[祭神] 事代主命[9]
明治40年(1907年)3月25日合祀[10]
  • 牛頭天王社 - 天和元年(1681年)合祀
  • 冨士嶽神社 - 大正7年(1918年)2月合祀
  • 西宮神社、諏訪神社[11]
  • 八幡神社、稲荷神社、少彦名神社
  • 地神神社、疱瘡神社、住吉神社
  • 多賀神社、摩利支天宮
  • 猿田彦大神、弥都波能女神
  • 金神、外18座

祭事

[編集]
  • 春祭 (4月3日)[12] - 小祭。
  • 夏祭 (境町ふれあい祭の日) - 中祭。
  • 秋祭 (10月最終日曜) - 大祭。「下渕名の獅子舞」が奉納される。

上記のように、秋祭では獅子舞が奉納される。この獅子舞は、昔は途絶えていたが昭和30年代に復活された[13]。獅子舞の流派は火挟流と言われる[3]。道具箱の銘から正徳元年(1711年)には整備されたと推測され、起源はこれ以前と考えられている[3]。この獅子舞は「下渕名の獅子舞」として、市の無形民俗文化財に指定されている[13]

文化財

[編集]

伊勢崎市指定文化財

[編集]
  • 重要文化財
    • 大国神社の石幢 - 昭和42年2月10日指定[6]
  • 重要無形民俗文化財
    • 下渕名の獅子舞 - 平成18年6月15日指定[13]

現地情報

[編集]

所在地

周辺

  • 下淵名遺跡
  • 十三宝塚遺跡 (じゅうさんぽうづかいせき、伊勢崎市境伊与久、北緯36度18分47.57秒 東経139度14分13.62秒
    国の史跡。当社の北西方2キロメートルの地にあり、佐位郡衙跡と推定される。

脚注

[編集]

原典

  1. ^ 『続日本紀』天平神護2年(766年)12月12日条。
  2. ^ 『続日本紀』神護景雲元年(767年)3月6日条。
  3. ^ 『続日本紀』神護景雲2年(768年)6月6日条。

出典

  1. ^ a b c d e f g 『群馬県の地名』大国神社項。
  2. ^ 祭神の記載は、境内説明板による。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 境内説明板。
  4. ^ a b c d e f g h 『日本の神々』大国神社項。
  5. ^ 『群馬県の地名』下淵名遺跡項。
  6. ^ a b 大国神社の石幢(伊勢崎市ホームページ)。
  7. ^ a b 浅間神社の由緒掲示板より(設置日:平成2年2月)
  8. ^ a b 天満宮の由緒掲示板より
  9. ^ a b 掲示板『上野国式内十二社大国神社縁起』より(設置日:平成9年10月)
  10. ^ a b 平成祭データ(作成者:神社本庁、作成日:1995年6月)
  11. ^ 摂末社の記載は境内説明板による。
  12. ^ 祭事の記載は境内説明板による。
  13. ^ a b c 下渕名の獅子舞(伊勢崎市ホームページ)。

参考文献

[編集]
  • 境内説明板
  • 『日本歴史地名体系 群馬県の地名』(平凡社、1987年)佐波郡境町 大国神社項・下淵名遺跡項
  • 田島桂男「大国神社」(谷川健一 編『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』(白水社、1984年))