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大口清秀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大口清秀
時代 江戸時代
生誕 不詳
死没 寛文8年(1668年1月4日
改名 伊兵衛→茂右衛門
別名 通称:伊兵衛、茂右衛門 / 藤原清秀
幕府 江戸幕府
主君 蜂須賀家
阿波徳島藩藩士
氏族 藤原秀郷大口氏
父母 大口清古
野々村直氏
兄弟 大口治大夫大口清秀山川弥五兵衛室、河野弥三右衛門佐藤七郎右衛門室、大口小兵衛大口信賢
南半左衛門
長濱義秀室、大口清行村上玄節室、村上玄節後室、大口正普先山尚親大口久和大口成房村上弥一右衛門
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大口 清秀(おおぐち きよひで、生年不詳 - 寛文8年(1668年1月4日)は、江戸時代ごろの武士[1]本姓藤原[1]。仕阿波徳島藩大口氏2代当主[1]

人物

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清秀は、織田信雄家臣の大口清古次男に生まれる[1]野々村直氏[1]。初め大口伊兵衛を名乗り、後に大口茂右衛門改名する[1]の清古が阿波徳島藩蜂須賀家に仕えると清秀も同じく徳島藩に仕える[1]

寛永10年(1633年11月14日に父の清古が病死したため、寛永11年(1634年3月に大口家の家督を継ぐ[1]。阿波国蜂須賀家の城下で弐百五十石(250石)を治めた[1]。寛永14年10月25日1637年12月11日)、肥前国島原・天草一揆が起きると、弟の大口信賢と共に幕府方から派遣された松平信綱の軍に従軍して武功を挙げた[1]。御剃物を頂いた後に剃髪し、寛文8年(1668年)の正月に病死した[1]

氏族

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大口氏は、藤原鎌足(中臣鎌足)子孫である藤原秀郷末裔とされ、伊勢国大口郷(現在の三重県松阪市大口町付近)に本拠を置く土豪となった[1]。つまり本姓は藤原であるため、正式な姓名藤原清秀である。清秀の子孫は代々阿波徳島藩に仕えた[1]。また、父の清古は大河内姓を名乗ったが、北畠家諸流の大河内氏や摂津源氏大河内氏の一族ではない。

系譜

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脚注

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出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『蜂須賀家家臣成立書并系図』徳島大学附属図書館蔵