大口清秀
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 寛文8年(1668年)1月4日 |
改名 | 伊兵衛→茂右衛門 |
別名 | 通称:伊兵衛、茂右衛門 / 藤原清秀 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 蜂須賀家 |
藩 | 阿波徳島藩藩士 |
氏族 | 藤原秀郷流大口氏 |
父母 |
父:大口清古 母:野々村直氏姉 |
兄弟 | 大口治大夫、大口清秀、山川弥五兵衛室、河野弥三右衛門、佐藤七郎右衛門室、大口小兵衛、大口信賢 |
妻 | 南半左衛門娘 |
子 | 長濱義秀室、大口清行、村上玄節室、村上玄節後室、大口正普、先山尚親、大口久和、大口成房、村上弥一右衛門室 |
大口 清秀(おおぐち きよひで、生年不詳 - 寛文8年(1668年)1月4日)は、江戸時代ごろの武士[1]。本姓は藤原[1]。仕阿波徳島藩系大口氏2代当主[1]。
人物
[編集]清秀は、織田信雄家臣の大口清古の次男に生まれる[1]。母は野々村直氏の姉[1]。初め大口伊兵衛を名乗り、後に大口茂右衛門と改名する[1]。父の清古が阿波徳島藩蜂須賀家に仕えると清秀も同じく徳島藩に仕える[1]。
寛永10年(1633年)11月14日に父の清古が病死したため、寛永11年(1634年)3月に大口家の家督を継ぐ[1]。阿波国蜂須賀家の城下で弐百五十石(250石)を治めた[1]。寛永14年10月25日(1637年12月11日)、肥前国で島原・天草一揆が起きると、弟の大口信賢と共に幕府方から派遣された松平信綱の軍に従軍して武功を挙げた[1]。御剃物を頂いた後に剃髪し、寛文8年(1668年)の正月に病死した[1]。
氏族
[編集]大口氏は、藤原鎌足(中臣鎌足)の子孫である藤原秀郷の末裔とされ、伊勢国大口郷(現在の三重県松阪市大口町付近)に本拠を置く土豪となった[1]。つまり本姓は藤原であるため、正式な姓名は藤原清秀である。清秀の子孫は代々阿波徳島藩に仕えた[1]。また、父の清古は大河内姓を名乗ったが、北畠家諸流の大河内氏や摂津源氏流大河内氏の一族ではない。
系譜
[編集]脚注
[編集]出典