大内地山
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おおうち ちざん 大内 地山 | |
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生誕 |
勘五郎(幼名) 1880年2月2日 茨城県那珂郡前浜村前浜 |
死没 |
1948年2月7日(68歳没) 茨城県那珂郡那珂湊町阿字ヶ浦 |
国籍 | 日本 |
職業 |
郷土史家 水戸学者 記者 |
代表作 | 本文参照 |
配偶者 | 高梨とく子 |
大内 地山(おおうち ちざん、1880年(明治13年)2月2日 - 1948年(昭和23年)2月7日)は、大正から昭和時代前期にかけて活動した水戸学者、郷土史家、『常総新聞』記者。幼名は勘五郎で[1]、1889年(明治22年)に本名を逸朗(いちら)に改めた[2]。
経歴
[編集]茨城県那珂郡前浜村前浜(現・ひたちなか市阿字ケ浦町)に、父・平三郎と母・ふくの第5子として生まれる。1894年(明治27年)に那珂郡立第二高等小学校(現・ひたちなか市立那珂湊第一小学校)の第1回卒業生となり、栗田寛の私塾・輔仁学舎(家塾輔仁学舎(かじゅくほじんがくしゃ)とも言う)に入門した[3]。その後、1898年(明治31年)9月に上京し東京法学院に入学、1901年(明治34年)7月に卒業した[4]。1902年(明治35年)に茨城日報社に入社、「地山」と号する。茨城日報社を3年有余勤めた後に辞し、一時大阪に赴き、『関西法律新聞』を発行したが1年足らずして廃刊し、再び水戸に帰り、新たに常総新聞社に入社し、その主筆となった[2]。1915年(大正4年)に高梨とく子(徳子)と結婚し[5][6]、翌1916年(大正5年)2月に満州に渡り、福昌公司に入社するが、1924年(大正13年)2月に福昌公司を辞し、帰国した[6]。その理由は詳らかでないが、健康を害したことと、満州における成果が芳しくなかったからではないかと推察される[7]。その後は茨城県の歴史や水戸学に関する著作を執筆し、1948年(昭和23年)2月7日、阿字ヶ浦にて逝去した[6]。
主な著作
[編集]- 福昌公司調査部編『満蒙通覧 上編・中編・下編』1918年(大正7年)12月5日[8]
- 『水戸学要義』1935年(昭和10年)6月15日[8]
- 『弘道館記釈義』1935年(昭和10年)6月15日[8]
- 『常総古今の学と術と人』1935年(昭和10年)[8]
- 『平磯町郷土史』1936年(昭和11年)8月5日[8]
- 『武田耕雲斎詳伝 上・下』1936年(昭和11年)9月17日[8]
- 『国体の本義解釈』1937年(昭和12年)[8]
- 『水戸学早わかり』1938年(昭和13年)[8] 昭和52年9月発刊の同書(復刻版)には、「解説 大内地山の水戸学研究」(薄井己亥執筆、全32ページ)が加えられている。
- 『人間義公』1938年(昭和13年)12月24日[8]
- 『水戸学読本』1939年(昭和14年)
- 『茨城県水産誌 第1~5編』1943年(昭和18年)[8]
- 『前渡郷土誌(勝田市史料 4)』, 1978年(昭和53年) - 原稿のまま、勝田市役所所蔵であったものを出版したもの[8]
- 『手向草』 - 妻・とく子の死を哀惜して供養の手向に綴った小冊で[9]、薄井己亥による「古今の漢文学に比して、遜色なき上級のもの」との賛辞が添えられている[10]。
家族
[編集]- 妻: とく子(1893年(明治26年)12月28日[5] - 1940年(昭和15年)10月14日[6]) - 東京生まれで、長唄の師匠であった母と共に水戸に移住し、大工町の芸妓となって舞踊の名取を務め、その世界ではそうそうたるものであった[11]。
兄 小池吉兵衛。干し芋の神様として知られる。阿字ヶ浦の堀出神社に銅像がある。子供時に自分の不注意で弟、大内地山に怪我をさせてしまったことを一生悔やんでいた。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 蔵野, 覚蔵『大内地山略伝』大内地山先生頌功会、1976年5月5日。