大井荘 (信濃国)
大井荘(おおいのしょう)は、信濃国佐久郡(現在の長野県佐久市岩村田)にあった荘園。
千曲川の両岸に散在し一円的な領域を形成せず、伴野荘・平賀郷との境界が錯綜しており[1]、正確な荘域は不明。
歴史
[編集]『和名類聚抄』には佐久郡大井郷とあり、平安後期の院政時代に、後白河院に寄進されて成立した。『吾妻鏡』文治2年3月12日(1186年4月3日)条に源頼朝に示された「関東御知行国々内乃具未済庄々注文」に八条院領の荘園として見え、建久5年(1194年)7月16日条によれば、当地の年貢は鎌倉幕府を介して京に弁進されるという[2]。
承久3年(1221年)の承久の乱における「宇治川の合戦」での戦功により、小笠原長清の七男朝光が地頭となって土着した。寛元2年(1244年)、大井光長が荘内の落合に「新善光寺」を創建、弘安2年(1279年)には銅鐘を寄進した[3]。乾元元年(1302年)には後宇多院領、徳治元年(1306年)には昭慶門院領となっている[4]。鎌倉幕府滅亡時には鎌倉御家人の工藤薩摩守(薩摩氏)が荘内長土呂郷の地頭であった[5]。
嘉暦4年(1328年)の「諏訪大社造営目録案」には落合、安原、香坂、長土呂、塚原、南市村、矢島、東布施、西布施、甕、崎田、田口、小田井などの諸郷村が含まれている[3]。また長倉郷(軽井沢町)が当荘に含まれたことは応永17年(1410年)の「紙本墨書大般若経」(小海町松原諏方神社所蔵)に記載されており[3]、同書の奥書には「信州路佐久県大井庄」の銘がある。天正元年(1573年)には横取郷(城光寺文書)の名が見え、同6年(1578年)の「上諏訪造宮清書帳」には荘内のうち鳴沢郷、矢島郷、長土呂郷、平尾郷、根々井郷、塚原郷、比田井郷が御柱の役銭負担地となっている[3]。
脚注
[編集]- ^ 「長野県史 通史編 第2巻」p.284
- ^ 「長野県史 通史編 第2巻」p.108
- ^ a b c d 「角川日本地名大辞典」p.226
- ^ 「長野県の地名」p.141
- ^ 「長野県史 通史編 第2巻」p.394
参考文献
[編集]- 『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』(平凡社、1979年)
- 『角川日本地名大辞典 20 長野県』(角川書店、1990年)
- 『長野県史 通史編 第2巻 中世1』