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大久保忠辰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大久保 忠辰
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正5年(1577年[1]
死没 元和6年(1620年[注釈 1][1]
別名 与一郎[1]
戒名 日行、日忠[1]
幕府 江戸幕府 使番徒頭[1]
主君 徳川秀忠
氏族 大久保氏
父母 大久保忠益[1]
兄弟 忠辰忠政忠尚青山正長の妻、中根喜八郎の妻[2]
与一郎、夏目信忠の妻、田村長矩の妻[1]
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大久保 忠辰(おおくぼ ただとき)は、江戸時代前期の武将江戸幕府旗本

生涯

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三河譜代・大久保氏の一族で、徳川家康に仕えた大久保忠益の長男。幼少時より家康の嫡男・徳川秀忠に仕える。慶長5年(1600年関ヶ原の戦いでは弟の忠政とともに秀忠軍に附属する。慶長19年(1614年)忠辰の再従兄弟にあたる幕府重鎮・大久保忠隣が失脚するとこれに連座し、弟の忠政・忠尚ともども閉門となる。同年、大坂冬の陣では弟たちとともに密かに秀忠勢に列する。翌年の夏の陣では松平忠明勢に属し、道明寺の戦い天王寺の戦いでそれぞれ首級を挙げた。このため閉門を許されて旗本に復帰し、使番徒頭などを歴任した。没年については元和6年(1620年)と寛永11年(1634年)とする説がある。忠辰の男子は早世したため、忠辰の家督は断絶している[2]

脚注

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注釈

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  1. ^ 寛永11年7月9日1634年8月2日)没とする説もある[1]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h 『寛政重修諸家譜』, p. 358.
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』, pp. 358–359.

出典

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  • 寛政重修諸家譜』 9巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0213-0