大久保忠辰
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正5年(1577年)[1] |
死没 | 元和6年(1620年)[注釈 1][1] |
別名 | 与一郎[1] |
戒名 | 日行、日忠[1] |
幕府 | 江戸幕府 使番、徒頭[1] |
主君 | 徳川秀忠 |
氏族 | 大久保氏 |
父母 | 大久保忠益[1] |
兄弟 | 忠辰、忠政、忠尚、青山正長の妻、中根喜八郎の妻[2] |
子 | 与一郎、夏目信忠の妻、田村長矩の妻[1] |
大久保 忠辰(おおくぼ ただとき)は、江戸時代前期の武将、江戸幕府旗本。
生涯
[編集]三河譜代・大久保氏の一族で、徳川家康に仕えた大久保忠益の長男。幼少時より家康の嫡男・徳川秀忠に仕える。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いでは弟の忠政とともに秀忠軍に附属する。慶長19年(1614年)忠辰の再従兄弟にあたる幕府重鎮・大久保忠隣が失脚するとこれに連座し、弟の忠政・忠尚ともども閉門となる。同年、大坂冬の陣では弟たちとともに密かに秀忠勢に列する。翌年の夏の陣では松平忠明勢に属し、道明寺の戦いと天王寺の戦いでそれぞれ首級を挙げた。このため閉門を許されて旗本に復帰し、使番や徒頭などを歴任した。没年については元和6年(1620年)と寛永11年(1634年)とする説がある。忠辰の男子は早世したため、忠辰の家督は断絶している[2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]出典
[編集]- 『寛政重修諸家譜』 9巻、高柳光寿(監修)、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0213-0。