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多賀谷厚孝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

多賀谷 厚孝(たがや ひろたか、生没年不詳)は出羽久保田藩士。久保田藩士家多賀谷氏当主で山本檜山所預。「秋田武鑑」が成立した頃の当主。通称は但馬。石高は3,376石余。家格は引渡二番坐。

祖父は多賀谷敦候(あつよし/あつとき、下総、佐竹義路の実弟で佐竹義敦より1字を賜う)、父は多賀谷和経(まさつね、佐竹義和より1字を賜う)。夫人は佐竹北家佐竹義術の娘である於庫。子息に佐竹義許(義術の養子)、多賀谷睦貞(ちかさだ、通称:彦太郎、佐竹義睦より1字を賜う)。多賀谷家知(いえとも、通称:勝之助、長門、初め佐竹義睦より1字を賜い睦昭(ちかあき)を称す)[1]

文政12年(1829年)に出仕[2]し、前述の家族にも見られる通り、多賀谷氏には主君の久保田藩主から1字を受ける慣例があり、これに倣って厚孝も藩主・佐竹義厚より一字拝領される[3]

長男・佐竹義許は夫人の実家の佐竹北家の養子となった。このため厚孝の後は、次男・睦貞、次いで三男・睦昭(家知)が当主となった。

脚注

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  1. ^ 家知についてと彦太郎の諱の記述は「三百藩家臣人名事典1」より。なお秋田武鑑に登場するのは義許、多賀谷彦太郎のみ
  2. ^ 秋田武鑑。藩主お目見えに相当。
  3. ^ 「秋田武鑑」で拝領項目で出仕で下の御一字とある

参考文献

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  • 三浦賢童編「秋田武鑑 全」(無明堂出版、昭和56年初版、原著は「久保田家中分限帳」の著者)
  • 家臣人名事典編集会「三百藩家臣人名事典1」(新人物往来社、昭和62年12月20日)