多羅尾光太
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文21年(1552年) |
死没 | 正保4年1月21日(1647年2月25日) |
別名 | 彦市、久右衛門、左京進(通称) |
戒名 | 超雲 |
墓所 | 浄顕寺(滋賀県甲賀市) |
幕府 | 江戸幕府代官 |
主君 | 豊臣秀吉、徳川家康、秀忠、家光 |
氏族 | 多羅尾氏 |
父母 | 多羅尾光俊、伊勢貞孝の養女 |
兄弟 | 神山佐渡室、光当、光太、光雅、伊兵衛、山口光広、光時 |
妻 | 竹内秀勝の娘、山角豊前守の娘 |
子 | 好光、光之、光氏、光尚、光正、虎松、豊臣秀次室、和田六郎左衛門室、中坊秀政室、大藤金左衛門室 |
多羅尾 光太(たらお みつもと)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。江戸幕府代官。
生涯
[編集]天文21年(1552年)、近江国甲賀郡の国人・多羅尾光俊の子として誕生。
天正10年(1582年)、徳川家康の伊賀越えに際し、父と共にこれに協力した。その後は豊臣氏に仕え、長女が豊臣秀次の側女になったが、秀次失脚に連座して改易、長女は処刑された。
慶長元年(1596年)からは徳川氏に仕え、既に出仕していた弟・光雅の所領を分けられて甲賀郡に1500石を領することになった。関ヶ原の戦い、大坂の陣のいずれもに従軍した。寛永6年(1629年)に致仕。なお、次女は幼少期より徳川家康に仕えた。
参考文献
[編集]- 「寛政重修諸家譜」巻第946