堀尾泰晴
表示
時代 | 戦国時代 – 安土桃山時代 |
---|---|
生誕 | 永正14年(1517年) |
死没 | 慶長4年11月9日(1599年12月26日) |
別名 | 吉久 |
戒名 | 天徳寺殿髙庵世崇大居士[1] |
主君 | 織田信安 |
氏族 | 堀尾氏 |
父母 | 父:堀尾泰政、母:不詳 |
兄弟 | 泰晴、方泰 |
子 | 吉晴、次郎助、氏光 |
堀尾 泰晴(ほりお やすはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。堀尾泰政の子。別名吉久。豊臣三中老の一人である堀尾吉晴の父。
概要
[編集]堀尾氏は尾張国丹羽郡御供所[2]の土豪であり、高階氏を称していた。泰晴は織田信長の一族「織田弾正忠家」の主筋清洲織田氏(織田大和守家)の嫡流である尾張半国守護代・岩倉織田氏(織田伊勢守家)当主織田信安に仕え、山内盛豊らとともに重臣の地位にあった。
永禄2年(1559年)、岩倉城の戦いで主家が滅亡した後の動向は定かではない。嫡男吉晴が豊臣秀吉に仕えた後に引き取られたと思われる。慶長4年(1599年)、孫の忠氏の家督相続と同年に没している。