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堀尾泰晴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
堀尾 泰晴
時代 戦国時代安土桃山時代
生誕 永正14年(1517年
死没 慶長4年11月9日1599年12月26日
別名 吉久
戒名 天徳寺殿髙庵世崇大居士[1]
主君 織田信安
氏族 堀尾氏
父母 父:堀尾泰政、母:不詳
兄弟 泰晴方泰
吉晴、次郎助、氏光
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堀尾 泰晴(ほりお やすはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将堀尾泰政の子。別名吉久。豊臣三中老の一人である堀尾吉晴の父。

概要

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堀尾氏は尾張国丹羽郡御供所[2]の土豪であり、高階氏を称していた。泰晴は織田信長の一族「織田弾正忠家」の主筋清洲織田氏(織田大和守家)の嫡流である尾張半国守護代・岩倉織田氏(織田伊勢守家)当主織田信安に仕え、山内盛豊らとともに重臣の地位にあった。

永禄2年(1559年)、岩倉城の戦いで主家が滅亡した後の動向は定かではない。嫡男吉晴が豊臣秀吉に仕えた後に引き取られたと思われる。慶長4年(1599年)、孫の忠氏の家督相続と同年に没している。

脚注

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  1. ^ 春光院
  2. ^ 現、愛知県丹羽郡大口町豊田