堀啓次郎
堀 啓次郎(ほり けいじろう、1867年2月7日(慶応3年1月3日[1][2][3])- 1944年(昭和19年)10月8日[1][2][3][4])は、明治から昭和前期の実業家、政治家。大阪商船社長、阪神電気鉄道社長、貴族院勅選議員。
経歴
[編集]加賀国石川郡金沢[1](現在の石川県金沢市)で加賀藩士・堀五平の長男として生まれ、親族・堀霞の養子となる[5][6]。1890年(明治23年)第一高等中学校を卒業し[1]、1893年(明治26年)7月、帝国大学法科大学法津学科を卒業した[1][2][3][4][5][7]。官界に進むことを好まず、郷里の先輩早川千吉郎に民間企業への紹介を依頼し、中橋和之の推薦で1893年7月、大阪露油合資会社に入社し手代格となる[1][2][5][8]。
大阪露油での働きが認められ、1895年(明治28年)12月、系列の大阪商船に転じ試験雇を務めた[1][2][3][4][5][9]。その後、仁川支店長、神戸支店長を経て、1902年(明治35年)1月、上海支店長となり、運輸課長を経て、1907年(明治40年)取締役理事、1911年(明治44年)副社長、1914年(大正3年)11月に社長に就任し、中橋徳五郎、山岡順太郎と共に大阪商船中興の三傑と称された[1][2][3][5][10]。1934年(昭和9年)6月、相談役となる[1]。その他、住友銀行取締役、日清汽船取締役、日本船主協会会長、日本商工会議所顧問、経済審議会委員、国際貸借審議会委員、国際観光委員会委員、大阪高等工業学校商議委員などを務めた[1][2][4]。
同郷の後輩小倉正恒の懇請により1931年(昭和6年)10月、阪神電気鉄道社長に就任し、1935年(昭和10年)4月まで在任した[1]。大阪商船社長と兼務で、また後に貴族院議員となり多忙のため、実務は今西与三郎専務と山口覚二常務に任せきりであったが、今西は堀の存在が阪神電鉄に信用を与え、事業の推進に大きく貢献したと評価している[1]。
1932年(昭和7年)3月15日、貴族院勅選議員に任じられ[2][3][4][11]、研究会に属して死去するまで在任した[4]。
著作
[編集]- 編『国際労働会議々事梗概 第2回』堀啓次郎、1921年。
伝記
[編集]- 『堀啓次郎翁追懐録』堀啓次郎翁追懐録編纂会、1949年。
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 『鉄道史人物事典』372-373頁。
- ^ a b c d e f g h 『20世紀日本人名事典 そ-わ』2252頁。
- ^ a b c d e f 『日本人名大辞典』1698頁。
- ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』161頁。
- ^ a b c d e 『大正人名辞典 第3版』561頁。
- ^ 『財界巨頭伝』349頁。
- ^ 『財界巨頭伝』349-350頁。
- ^ 『財界巨頭伝』350-351頁。
- ^ 『財界巨頭伝』353-354頁。
- ^ 『財界巨頭伝』354-357頁。
- ^ 『官報』第1561号、昭和7年3月16日。
参考文献
[編集]- 鉄道史学会編『鉄道史人物事典』日本経済評論社、2013年。
- 『20世紀日本人名事典 そ-わ』日外アソシエーツ、2004年。
- 上田正昭他『日本人名大辞典』講談社、2001年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 実業之日本社編輯局編『財界巨頭伝 : 立志奮闘』実業之日本社、1930年。
- 東洋新報社編『大正人名辞典 第3版』東洋新報社、1917年。
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