コンテンツにスキップ

坂本成方

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
坂本成方
時代 江戸時代前期
生誕 承応2年(1653年
死没 正徳3年閏5月22日1713年7月14日
別名 久五郎、小左衛門(通称
戒名 日玄
墓所 東京都港区北青山の持法寺
幕府 江戸幕府
氏族 坂本氏
父母 父:坂本重治、母:高橋氏
兄弟 成方治之直規
養女(花房正之の妻)[注釈 1]
正室:小出有重の娘
継室:中西元照の娘
養子:直規
テンプレートを表示

坂本 成方(さかもと しげかた[1])は、江戸時代前期の旗本。短期間存在した相模国深見藩の嫡子だった。

生涯

[編集]

承応2年(1653年)、当時は300石取りの大番士であった[2]坂本重治の子として誕生。万治3年(1660年)、8歳で徳川家綱に拝謁[1]延宝6年(1678年)、小姓組番士として出仕する[1]

この間、父の重治は寛文2年(1662年)に小納戸に昇進していた[2]。重治は天和元年(1681年)に大目付を経て、翌天和2年(1682年)に寺社奉行に就任、7800石という大幅な加増を受けて1万石の大名に列した(深見藩[1]。成方は、父が大名に列したことを受けて番を免じられ[1]、貞享元年(1684年)には菊間広縁詰となった[1]

ところが貞享4年(1687年)5月14日、重治は徳川綱吉の勘気を被り、寺社奉行を罷免の上、蟄居を申し付けられる[1]。成方も父に連座し、拝謁をはばかることとなった[1]。元禄2年(1689年)6月4日、父の蟄居処分は赦されたが、7800石の加増分を没収されて2200石の旗本身分(小普請)となった[1]。成方も同日処分を赦される[1]

元禄6年(1693年)に父が死去[1]。成方が家督を継ぎ、次弟の治之[注釈 2]に500石を分知して、1700石の旗本となった[1]

小普請のまま、正徳3年(1713年)に61歳で死去した[1]。子はなく、三弟の直規に跡を継がせている[1]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 実父は松平弾正忠(大多喜藩)家臣・高橋治左衛門[1]
  2. ^ 成方の異母弟[3]延宝2年(1674年)に家綱に拝謁を済ませていた[3]

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.795、『新訂寛政重修諸家譜 第三』p.81。
  2. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.794、『新訂寛政重修諸家譜 第三』p.80。
  3. ^ a b 『寛政重修諸家譜』巻第百三十一、国民図書版『寛政重修諸家譜 第一輯』p.796、『新訂寛政重修諸家譜 第三』p.82。

参考文献

[編集]