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土岐頼泰 (高家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
土岐頼泰
時代 江戸時代前期
生誕 不詳
死没 宝永5年(1708年5月
別名 兵庫(通称
幕府 江戸幕府
氏族 土岐氏
父母 父:土岐頼晴、母:鈴木重泰の娘
兄弟 頼茂、依田元只、頼一、大久保忠政、頼泰、頼行
養子:頼盈(土岐頼茂の子)
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土岐 頼泰(とき よりやす)は、江戸時代前期の高家旗本土岐頼晴の子で、土岐頼次玄孫に当たる。頼次流高家土岐家最後の当主

生涯

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元禄15年(1702年7月11日徳川綱吉に拝謁。9月29日、父の遺跡を継いで700を知行、弟・頼行に300石を分知し[1]、父に先立って亡くなった兄・頼茂の子・頼盈を養嗣子とする[2]

堅苦しい役目になじめず、日々酒に溺れたとされる。宝永3年(1706年6月28日、泥酔して江戸市中を徘徊、小普請・志村金五郎政豊の下僕と商人に斬り付け、負傷させる。これにより、評定所の裁断を受けて大和新庄藩主・永井直圓に預けられる。同年8月18日、日頃の不行跡もあったため改易され、上野国伊勢崎藩主・酒井忠告の元に永預けとなる。宝永5年(1708年)5月、配所で死去、享年不明[2]。これにより頼次流高家土岐家は絶家した。

脚注

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  1. ^ 寛政重修諸家譜』巻第二百八十三
  2. ^ a b 河原芳嗣『江戸の旗本たち -墓碑銘をたずねて-』(アグネ、1997年平成9年))86 - 87頁