土岐頼泰 (高家)
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 宝永5年(1708年)5月 |
別名 | 兵庫(通称) |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 土岐氏 |
父母 | 父:土岐頼晴、母:鈴木重泰の娘 |
兄弟 | 頼茂、依田元只、頼一、大久保忠政、頼泰、頼行 |
子 | 養子:頼盈(土岐頼茂の子) |
土岐 頼泰(とき よりやす)は、江戸時代前期の高家旗本。土岐頼晴の子で、土岐頼次の玄孫に当たる。頼次流高家土岐家最後の当主。
生涯
[編集]元禄15年(1702年)7月11日、徳川綱吉に拝謁。9月29日、父の遺跡を継いで700石を知行、弟・頼行に300石を分知し[1]、父に先立って亡くなった兄・頼茂の子・頼盈を養嗣子とする[2]。
堅苦しい役目になじめず、日々酒に溺れたとされる。宝永3年(1706年)6月28日、泥酔して江戸市中を徘徊、小普請・志村金五郎政豊の下僕と商人に斬り付け、負傷させる。これにより、評定所の裁断を受けて大和新庄藩主・永井直圓に預けられる。同年8月18日、日頃の不行跡もあったため改易され、上野国伊勢崎藩主・酒井忠告の元に永預けとなる。宝永5年(1708年)5月、配所で死去、享年不明[2]。これにより頼次流高家土岐家は絶家した。