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土屋義清

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
土屋 義清
時代 平安時代後期 - 鎌倉時代初期
生誕 不明
死没 建暦3年5月3日1213年5月31日[1]
別名 次郎[1]、小次郎[2]
官位 兵衛尉[3]大学権助[1]
幕府 鎌倉幕府 御家人
主君 頼朝頼家実朝
氏族 岡崎氏土屋氏
父母 父:岡崎義実、母:中村宗平の娘
養父:土屋宗遠[1]
兄弟 佐奈田義忠義清[2]
義則[4]
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土屋 義清(つちや よしきよ)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の相模国武士

概要

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父は三浦氏岡崎義実だが、母方の叔父にあたる中村氏土屋宗遠の養子となった。当初は平氏に従ったが、治承4年(1180年)に源頼朝が挙兵すると実父・養父とその一族とともにこれに従った[1][5]文治5年(1189年)の奥州合戦にも義実や土肥実平らとともに従軍[6]建久10年(1199年)、梶原景時弾劾の66名に名を連ねる(梶原景時の変[3]建暦2年(1212年)、法勝寺九重塔造営の成功によって大学権助に任じられる[7]。建暦3年(1213年)の和田合戦では土肥維平や甥の岡崎実忠らとともに和田氏に属する。合戦では古郡保忠朝比奈義秀とともに勇戦し鎌倉に乱入したが、鶴岡八幡宮の赤橋のあたりで流れ矢に当たって戦死した[1][8]

頼朝が鎌倉に入るとかつて義実が源義朝供養のために草堂を建立していた亀谷の地を相続し、治承5年(1181年)、頼朝が生母の法要を亀谷堂で行っている[9]。後に亀谷堂の跡には寿福寺が建立されたが、義清の死後はその由縁があって同寺に葬られた[7]

脚注

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出典

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  • 上田正昭; 西澤潤一; 平山郁夫 ほか 編『日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 978-4-06-210800-3 
  • 鈴木棠三; 鈴木良一 編『神奈川県の地名』平凡社日本歴史地名大系〉、2004年。ISBN 978-4-582-91033-9 
  • 小葉田淳 編『福井県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系〉、1981年。ISBN 978-4-582-91010-0 
  • 石野瑛『神奈川県大観』 4巻、武相出版社、1956年。 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第四編』 2巻、東京大学出版会、1968年。ISBN 978-4-13-090152-9 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第四編』 6巻、東京大学出版会、1970年。ISBN 978-4-13-090156-7 
  • 東京大学史料編纂所 編『大日本史料 第四編』 12巻、東京大学出版会、1970年。ISBN 978-4-13-090162-8