コンテンツにスキップ

国民政府委員会 (汪兆銘政権)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
中華民国の旗 中華民国行政機関
国民政府委員会
國民政府委員會
役職
国民政府主席 汪兆銘(1940年 - 1944年)
陳公博(1944年 - 1945年)
概要
所在地 中華民国の旗 中華民国 南京特別市
設置根拠法令 中華民国国民政府組織法
設置 1940年3月30日
廃止 1945年8月16日
テンプレートを表示

国民政府委員会(こくみんせいふいいんかい、: 國民政府委員會)は、中華民国汪兆銘政権)の政務を担当する機関である。「中華民国国民政府組織法」の規定によると国民政府委員会は国民政府主席(国民政府委員会主席)と国民政府委員で構成され、その人員は中央政治委員会が決定した[1]

主席

[編集]

1940年(民国29年)3月30日汪兆銘率いる南京国民政府が樹立され、重慶側主席であった林森を名目上の主席に据え、汪兆銘自身は代理主席として政務を担当した。11月28日、中央政治委員会会議で「中華民国国民政府組織法」が改正され、「主席は実際の政治責任を負わない」「主席は他の官職を兼任できない」という条文を削除した上で汪兆銘を主席に選出した。

汪兆銘は1944年(民国33年)3月3日に病気治療のため日本に渡航したが、渡航前に陳公博に後事を託していたこともあって、同年3月22日の中央政治委員会臨時会議では汪の意向を踏まえ、汪が不在の間、陳公博が職務を代行することになった。そして11月10日に汪兆銘が死去すると陳公博は11月20日に代理主席に就任し、1945年(民国34年)8月16日に南京国民政府が崩壊するまで依然として代理主席の地位にあり続けた[2]

姓名 肖像 在任期間 備考
- 林森 1940年3月30日 - 1940年11月28日 名目上の主席であり、汪兆銘が代理主席として実際の政務を行った。
1 汪兆銘 1940年11月28日 - 1944年11月10日 1944年11月10日に死亡。
代理 陳公博 1944年11月20日 - 1945年8月16日 1945年8月16日に南京国民政府が解散。

委員

[編集]

以下が国民政府委員の一覧である[3][4]

指名 就任時期
王克敏 1940年
張永福中国語版 1940年
愛新覚羅溥侗 1940年
張英華 1940年
董康 1940年
褚民誼 1940年12月12日
陳中孚 1941年5月1日
趙正平 1941年8月16日
楊寿楣 1941年8月16日
張国元中国語版 1941年9月11日
倪道烺 1942年
廖恩涛 1942年
オンクパト 1943年
王揖唐 1943年
陳済成 1943年
岑徳広 1943年
周作人 1943年
徐良 1943年
陳群 1943年6月17日
趙毓松 1943年8月26日
李泰棻 1944年2月3日
王道元 1944年
江亢虎 1944年11月2日
羅君強 1944年12月27日
喩熙杰 1945年1月18日
陳継祖 1945年1月18日
克興額中国語版 1945年2月1日
高冠吾 1945年3月3日
陳春圃 1945年5月3日
项致庄 1945年5月3日
項致荘 1945年5月3日

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]
  1. ^ 中央档案馆等 (2004). “中华民国国民政府组织法” (中国語). 日本帝国主义侵华档案资料选编 汪伪政权. 中华书局 
  2. ^ 王晓华, 陈宁骏 (2009) (中国語). 汪伪国民政府旧址史话. 南京出版社 
  3. ^ 刘国铭 (1989) (中国語). 中华民国国民政府军政职官人物志. 春秋出版社 
  4. ^ 刘寿林 (1995) (中国語). 民国职官年表. 中华书局 

関連項目

[編集]