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商瑭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

商 瑭(しょう とう、生没年不詳)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人官僚の一人。字は礼符。クビライに仕え京兆地方の経営に尽力した商挺の息子の一人。

概要

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商瑭はモンゴルに仕えるとまず右衛屯田千戸とされたが、病により32歳にして職を辞した。その後郷里に戻ると、晦道堂と名付けた施設を築いたが、これは北宋仁宗に仕えて太子中舎人となった七世の祖の商宗弼にあやかったものであった[1]

脚注

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  1. ^ 『元史』巻159列伝第46商瑭伝,「瑭字礼符。仕為右衛屯田千戸。歳餘、謝病侍親、時年纔三十二。後還郷里、築室曰晦道堂、蓋取七世祖宗弼、宋仁宗時為太子中舎人、年五十掛冠所築堂名也」

参考文献

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  • 元史』巻159列伝第46商瑭伝
  • 新元史』巻158列伝第55商瑭伝
  • 松田孝一「元朝期の分封制 : 安西王の事例を中心として」『史學雜誌』88号、1979年
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年