唐衣橘洲
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唐衣 橘洲(からごろも きっしゅう、旧仮名遣い:からころもきつしう、寛保3年12月4日(1744年1月18日) - 享和2年7月18日(1802年8月15日))は、江戸時代後期の狂歌師。大田南畝、朱楽菅江と共に天明狂歌の社会現象をおこし、狂歌三大家といわれた。本名は小島源之助、名は恭従(のち謙之)、字は温之、別号は酔竹園。
来歴
[編集]来歴は『新版近世文学研究事典』に拠る[1]。
江戸四谷忍原横町に住んだ幕臣。内山賀邸に和学漢学を学び、萩原宗固に和歌を学ぶ。1769年(明和6年)に大田南畝・平秩東作を誘って狂歌会を開き、1770年(明和7年)に賀邸と宗固を判者として「明和十五番狂歌合」を催し、狂歌愛好者が増えていくが、南畝と対立。1783年(天明3年)正月刊行の南畝撰『万載狂歌集』が、橘洲撰『狂歌若葉集』を圧倒したため、橘洲は狂歌界と疎遠になるが、1785年(天明5年)『俳優風』『夷歌百鬼夜狂』で復帰。1790年(寛政2年)に『狂歌初心抄』、1800年(寛政12年)『狂歌うひまなび』を刊行した。温雅な作風が特徴で、没年まで江戸狂歌界の重鎮として活躍した。
脚注
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