呉錫永
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呉錫永 | |
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プロフィール | |
出生: | 1880年[1][2] |
死去: | 不詳 |
出身地: | 清浙江省呉興県 [1][2] |
職業: | 軍人・官僚・政治家 |
各種表記 | |
繁体字: | 吳錫永 |
簡体字: | 吴锡永 |
拼音: | Wú Xīyǒng |
ラテン字: | Wu Hsi-yung |
和名表記: | ご しゃくえい |
発音転記: | ウー・シーヨン |
呉 錫永(ご しゃくえい、1880年 – 没年不詳)は清末・中華民国の軍人・官僚・政治家。字は仲言[1]。
事績
[編集]清末に日本へ留学し、陸軍士官学校第1期歩兵科を卒業した。帰国後は南京に至り、第9鎮統制・徐紹楨の下で協統となる。両広総督督錬公署督弁まで昇進したが、黄興率いる革命派の爆弾テロに遭い右脚を喪失し、以後、軍職を離れることになった[1][3]。
辛亥革命の後はいったん上海に留まり、英国サミュエル商会の代理店を営んだ[3]。中華民国成立後は北京政府に入り、浦口商埠局幇弁[4]、大総統府秘書、国務院秘書などを歴任する[1]。1923年(民国12年)2月8日、財政部秘書に任用され、同年7月9日、外交部膠澳交渉員に移った[5]。その他にも、山東捲煙特税局長、山東省政府公署秘書長、北京市政公署(北京特別市政府)秘書を歴任している。
1929年(民国18年)6月13日、呉錫永は上海特別市政府財政局局長に起用された[5]。同年、江海関監督代理を兼任している[1]。1931年(民国20年)3月27日、国民政府主計処秘書に就任し、4月11日に上海市財政局長の兼務を解除されている。主計処秘書については、1938年(民国27年)1月21日までつとめた[5]。
その後、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会に呉錫永は参与し、1940年(民国29年)5月4日、財務総署署長代理(総署督弁:汪時璟)[6]に任命された[7]。1943年(民国32年)3月8日、故宮博物院臨時理事を兼任している[8]。同年11月16日、華北政務委員会組織改革に伴い、呉は経済総署署長代理へと異動した(総署督弁:汪時璟)[9]。
日本敗戦後における呉錫永の行方は不詳である[10]。
注
[編集]- ^ a b c d e f 外務省情報部編(1937)、149頁。
- ^ a b 東亜問題調査会編(1941)、53頁。
- ^ a b 外務省情報部編(1928)、705-706頁。
- ^ 劉恩源が浦口商埠督弁になった時のため、1914年(民国3年)4月15日ごろのことと考えられる。
- ^ a b c 中華民国政府官職資料庫「姓名:吳錫永」
- ^ 華北政務委員会の総署においては、督弁と署長で正副の関係にある。
- ^ 華北政務委員会任用令、任字第54号、民国29年5月4日(『華北政務委員会公報』第1-6期合刊、民国29年6月9日、華北政務委員会政務庁情報局、本会16頁)。
- ^ 華北政務委員会令、会字第999号、民国32年3月8日(『華北政務委員会公報』第199・200期合刊、民国32年4月9日、本会1頁)。
- ^ 華北政務委員会令、政字第26号、民国32年11月16日(『華北政務委員会公報』第250期、民国32年12月16日、本会1頁)。
- ^ 中国語版wikipediaによれば呉錫永は漢奸指名を受けたとしているが、根拠史料は不明。
参考文献
[編集]- 外務省情報部編『現代中華民国満洲国人名鑑 昭和十二年版』東亜同文会業務部、1937年。
- 東亜問題調査会『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
- 外務省情報部編『現代支那人名鑑 改訂』東亜同文会調査編纂部、1928年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。