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名和又八郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
名和なわ 又八郎またはちろう
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1886年 - 1923年
最終階級 海軍大将
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名和 又八郎(なわ またはちろう、文久3年12月22日1864年1月30日) - 昭和3年(1928年1月12日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍大将従二位勲一等功四級は若舟。名和氏の代表的な家紋帆掛船

経歴

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小浜藩士、武久久三の子として東京で生まれ、同藩の名和荘山の養子となる。明治16年(1883年)、海軍兵学校10期生)を卒業し、同19年(1886年)に少尉任官。「筑波」分隊長、防護巡洋艦「浪速」分隊長、「海門」分隊長を歴任、日清戦争時は「松島」分隊長であった。さらに海軍兵学校教官、「金剛」副長などを経て、明治32年(1899年)、海軍省副官兼海相秘書官となり山本権兵衛大臣に仕えた。

明治33年(1900年)、「初瀬」副長に任命され、イギリスに出張し同艦を回航。その後、舞鶴鎮守府参謀、人事局第2課長、「出雲」艦長、「厳島」艦長、「生駒」艦長、軍令部参謀(第4班長)などを歴任し、明治41年(1908年)、海軍少将に進級。さらに、呉鎮守府参謀長、第3艦隊司令官、将官会議議員、海軍教育本部長、第2艦隊司令長官、舞鶴鎮守府司令長官、横須賀鎮守府司令長官を歴任し、大正7年(1918年)に海軍大将、同9年(1920年)に軍事参議官となり、同12年(1923年)に予備役に編入された。

1928年(昭和3年)1月12日薨去享年66歳。墓所は新宿区若松町宝祥寺。当寺は、名和の実家である武久家を始めとした小浜藩家臣菩提寺となっている。

栄典・授章・授賞

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位階
勲章等

親族

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若狭国出身の海軍将官

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脚注

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  1. ^ 『官報』第931号「叙任」1886年8月7日。
  2. ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日。
  3. ^ 『官報』第4603号「叙任及辞令」1898年11月1日。
  4. ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
  5. ^ 『官報』第7640号「叙任及辞令」1908年12月12日。
  6. ^ 『官報』第126号「叙任及辞令」1912年12月29日。
  7. ^ 『官報』第772号「叙任及辞令」1915年3月2日。
  8. ^ 『官報』第1688号「叙任及辞令」1918年3月22日。
  9. ^ 『官報』第2614号「叙任及辞令」1921年4月21日。
  10. ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1923年5月1日。
  11. ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」1895年11月29日。
  12. ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
  13. ^ 『官報』第4754号「叙任及辞令」1899年5月10日。
  14. ^ 『官報』第5835号・付録「叙任及辞令」1902年12月13日。
  15. ^ 中野文庫 - 旧・金鵄勲章受章者一覧
  16. ^ 『官報』第1096号「叙任及辞令」1916年3月30日。
  17. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  18. ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。

参考文献

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  • 半藤一利他『歴代海軍大将全覧』中央公論新社〈中公新書ラクレ〉、 2005年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
先代
島村速雄
教育本部長
第13代:1914年4月22日 - 1915年2月5日
次代
加藤定吉
先代
加藤定吉
第二艦隊司令長官
第9代:1915年2月5日 - 同12月13日
次代
八代六郎
先代
坂本一
舞鶴鎮守府司令長官
第7代:1915年12月13日 - 1917年12月1日
次代
財部彪
先代
東伏見宮依仁親王
横須賀鎮守府司令長官
第17代:1917年12月1日 - 1920年8月24日
次代
山屋他人