吉見隆頼
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 明応8年(1500年) |
死没 | 天文9年10月16日(1540年11月14日)[注釈 1] |
別名 | 頼隆、三郎(通称)[1] |
戒名 | 栄林源春[1] |
墓所 | 恵長寺境内 |
官位 | 三河守[1] |
主君 | 大内義隆 |
氏族 | 清和源氏範頼流石見吉見氏 |
父母 | 吉見頼興[1]、内藤弘矩娘[1] |
兄弟 |
興成[1]、隆頼、威俊[1]、周信[1]、 正頼[1]、頼盛、頼員[1]、頼実[1]、範弘、周布興兼室[1] |
妻 | 大宮姫 |
子 |
内藤隆春室[1]、波多野滋信室[1]、 周布武兼室[1]、女子 |
吉見 隆頼(よしみ たかより)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。石見吉見氏10代当主。
出自
[編集]石見国の国人である石見吉見氏は、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の弟・範頼を遠祖とする清和源氏の支流・吉見氏の傍流にあたる。
生涯
[編集]明応8年(1500年)、吉見頼興の次男として誕生。永正7年(1510年)8月17日、長兄・興成(成興)が早世(享年17)したため嫡子となる[1]。隆頼[注釈 2]の名乗りは主君の大内義隆より偏諱を受けたものである。大内義興の娘・大宮姫(義隆の姉)を娶る。享禄5年(1532年)4月12日に父・吉見頼興の死去を受け、家督を継承した[2]。
天文9年(1540年)10月16日、先祖ゆかりの源御社(津和野木曽)に参詣したが、その後に向かった山口に滞在中に、何者か(山賊)に殺害され死去、享年41。家督は僧籍にあった弟・正頼が還俗して継いだ。
性格的には文化人であったようで、天文7年(1538年)に先祖ゆかりの地である津和野に「祇園会」を復活させるなど、事績にもその一面が窺える。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション