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吉良義堯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉良義堯
時代 戦国時代
氏族 吉良氏
父母 父:吉良義元
今川氏親
義郷義安義昭
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吉良 義堯(きら よしたか、生没年不詳)は、戦国時代武将三河西条吉良氏(上吉良)6代。幼名は珍王丸、通称は三郎。左兵衛佐と称す。妻は後藤平太夫の娘とされてきたが実際は側室であったと推定され[注釈 1]今川氏親寿桂尼の長女である徳蔵院殿が正室と考えられている[2]。子は義郷義安義昭

吉良義元嫡男として生まれる[注釈 2]。父義元が家督を継ぐことなく永正13年(1516年)以前に没したため、同年10月4日、祖父吉良義信から家督を譲られる。

永正16年(1519年)に元服[4]。同年10月14日、将軍足利義稙に対し元服の礼物を献上しているが、これが京都における西条吉良氏の消息の最後である。この直後、義稙が失脚し京都を追われたため、祖父義信の頃から義稙派であった西条吉良氏は、京都での立場を失い、吉良荘に戻り領国経営に専念したと思われる。

遠江国浜松荘静岡県浜松市)は南北朝時代から吉良氏の領地であったが、駿河今川氏の侵攻に遭い、代官である大河内貞綱巨海道綱兄弟は斯波氏と結んで、これに対抗していた。これに対して前代官の飯尾賢連は今川氏の助けを借りて復権を図ろうとする。義堯が家督を継いで間もない永正14年(1517年)8月19日、今川氏親により拠点である引馬城を落とされて大河内兄弟は揃って戦死、引馬城に復帰した飯尾賢連は今川氏親の家臣に転じたために吉良氏は遠江の所領を失うこととなった[5]。ただし、前述のように、その後今川氏と和睦をして氏親の長女が義堯の正室になっている。その背景として、本来吉良氏の分家である今川氏にとって吉良氏は格上の存在であり、婚姻関係を結ぶことで、今川氏による吉良氏の従属の事実(いわば「下剋上」)を曖昧にする目的があったとされている[2]

法名は乾福院殿通山是公大居士。

脚注

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注釈

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  1. ^ 後藤平太夫の出自は不明であるが遠江を本拠地とした幕府奉公衆後藤氏の庶流とする説がある。なお、天文18年(1549年)の今川氏の三河侵攻の際に反今川の首謀者として処刑されている[1]
  2. ^ 大塚勲は吉良義堯を永正3年(1506年)生まれと推定し、その正室である今川氏親の娘も永正10年(1513年)生まれの今川氏輝よりも年長であったとする[3]

出典

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  1. ^ 小林輝久彦「天文・弘治年間の三河吉良氏」『安城市歴史博物館研究紀要』12号、2012年。/所収:大石泰史 編『今川義元』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第二七巻〉、2019年6月、255・271頁。ISBN 978-4-86403-325-1 
  2. ^ a b 黒田基樹『北条氏康の妻 瑞渓院』平凡社〈中世から近世へ〉、2017-12月、37-39頁。ISBN 978-4-582-47736-8 
  3. ^ 大塚勲「今川義元の三河西条城接収」『今川氏と遠江・駿河の中世』岩田書院〈岩田選書 地域の中世〉、2008年。 
  4. ^ 谷口雄太『足利将軍と御三家 吉良・石橋・渋川氏』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー559〉、2022年11月1日、117頁。ISBN 978-4-642-05959-6 
  5. ^ 谷口雄太「戦国期における三河吉良氏の動向」『戦国史研究』第66号、2013年。 /所収:谷口雄太『中世足利氏の血統と権威』吉川弘文館、2019年、42-47頁。 
先代
吉良義信
西条吉良家当主
吉良義堯
次代
吉良義郷