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吉成信貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
吉成 信貞
時代 江戸時代後期
生誕 寛政9年(1797年[1][2]
死没 嘉永3年9月4日[3]1850年10月9日
改名 小太郎[4]・十五郎(幼名)[3]、信貞
別名 又右衛門[1]、又衛門(通称)[4]、慎亭、南園(号)[4]、履善(字)[1]
官位 正五位
主君 徳川斉脩斉昭
常陸水戸藩
氏族 吉成氏
父母 吉成信友板橋元信[1]
青山延于
軽部政行[1]
勇太郎恒次郎
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吉成 信貞(よしなり のぶさだ)は、江戸時代後期の水戸藩士

家系

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本姓坂上氏白河氏[要曖昧さ回避]の家臣に陸奥国三春城田村氏庶流吉成氏あり(ただし、本家の田村氏には平氏説がある)。佐竹氏の家臣を経て、水戸藩に仕官する。

  • 吉成氏系譜
  • 田村義顕-田村行顕-田村補守-吉成政房-吉成清信

生涯

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寛政9年(1797年)、水戸藩士・吉成信友の子として誕生。

大竹雲夢に学問を学び、のちに藤田幽谷の門下となった[4]。剣・槍・銃・射の武術にも優れた[4]文政4年(1821年)に家督を相続した[1]。小普請組を経て、馬廻組、進者番に進む[1]徳川斉昭の水戸藩主襲封問題においては、斉昭派となった[1]天保10年(1839年)、郡奉行となり、大子陣屋に住む[1]。藩の天保の改革の際には斉昭の側近として活躍し、主に民政の面で尽力[4]。特に天保検地の実施、秋成新田(現・茨城県水戸市)の開拓、那珂湊(現・茨城県ひたちなか市)の大火対策などに治績を収めた[4]弘化元年(1844年)に斉昭が致仕となると、その宥免に奔走し、逼塞・謹慎・蟄居の難に遭った[1]

嘉永3年(1850年)、死去。

明治40年(1907年)、正五位を追贈された[5]

系譜

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著作

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  • 『吉成信貞時務策』
  • 『慎亭封事』
  • 『歎願始末』
  • 『禁錮中雑録』
  • 『南園遺稿』

伝記

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  • 仲田昭一『吉成又右衛門信貞 : 烈公を支えた郡奉行』〈水戸の人物シリーズ 第4集〉、水戸史学会、1988年。

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j 『三百藩家臣人名事典 2』「吉成又右衛門」456頁。
  2. ^ 『茨城県大百科事典』1068頁では「1798年」。
  3. ^ a b 『明治維新人名辞典』「吉成又右衛門」1072頁。
  4. ^ a b c d e f g 『茨城県大百科事典』「吉成又衛門」1068頁。
  5. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.24

参考文献

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  • 茨城新聞社編『茨城県大百科事典』茨城新聞社、1981年。
  • 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
  • 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 2』新人物往来社、1988年。

関連項目

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