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吉川芳秋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
吉川芳秋
人物情報
生誕 1908年明治41年)10月10日
愛知県中島郡千代田村氷室(稲沢市氷室町)
死没 1992年平成4年)11月9日
愛知県名古屋市東区
肺炎
居住 愛知県名古屋市、瀬戸市香川県高松市
国籍 日本の旗 日本
出身校 名古屋市立名古屋商業学校
配偶者 吉川たい子
両親 吉川秦五郎(実父)、吉川貞一(養父)
子供 修三、和子、淑子
学問
時代 昭和時代
研究分野 尾張地域の科学史
称号 従四位勲四等
主な業績 尾張本草学者の伝記研究
主要な作品 『医学・洋学・本草学者の研究』
学会 中京植物学会、名古屋郷土文化会、日本医史学会
主な受賞歴 CBCクラブ文化賞
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吉川 芳秋(よしかわ よしあき)は、愛知県郷土史家江戸時代尾張藩で発展した医学洋学本草学に係る人物の事跡等を研究した。

生涯

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1908年(明治41年)10月10日、愛知県中島郡千代田村氷室(稲沢市字氷室)の農家吉川秦五郎の三男三女の次男として生まれた[1]。2歳の時、父の弟の建築業者吉川貞一養子となり、名古屋市東区長堀町に移った[1]。名古屋市立第一幼稚園、名古屋市立白壁小学校を経て、名古屋市立名古屋商業学校在学中、梅村甚太郎を介して知り合った小島清三と中京植物学会を設立し、主宰として1924年(大正13年)7月『植物界』、1928年(昭和3年)1月『サイエンス』を創刊した[1]

1930年(昭和5年)6月自宅でCA趣味社を設立しCA趣味社叢書を出版、1933年(昭和8年)名古屋市立名古屋図書館青山兵次とむかしの会を結成し、例会を定期開催した[1]。これらの活動がNHK名古屋放送局の目に止まり、1934年(昭和9年)1月16日「郷土の偉人伊藤圭介翁を偲んで」、1935年(昭和10年)4月24日「シーボルト熱田宮駅」の放送を行った[1]。1937年(昭和12年)2月名古屋汎太平洋平和博覧会委員、1942年(昭和17年)4月愛知県科学技術振興会物故科学者顕彰材料蒐集委員[1]。1945年(昭和20年)10月むかしの会が他団体とともに名古屋郷土文化会に統合され、理事に就任した[1]

1967年(昭和42年)頃より緑内障、1978年(昭和53年)頃より座骨神経痛を患い、1992年(平成4年)11月9日肺炎のため死去した[1]。蔵書は妻吉川たい子により東山動植物園に寄贈された。

主著

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  • 1927年(昭和2年) 『水谷豊文先生の伝』
  • 1932年(昭和7年) 『日本科学の先覚宇田川榕菴
  • 1954年(昭和29年) 『苦心努力した人々と郷土尾張科学の片影』
  • 1955年(昭和30年) 『尾張郷土文化医科学史攷』
  • 1955年(昭和30年) 『尾張郷土文化医科学史攷拾遺』
  • 1957年(昭和32年) 『伊藤圭介翁 日本最初の理学博士尾張医科学文化の恩人』
  • 1958年(昭和33年) 『紙魚のむかし語り』
  • 1960年(昭和35年) 『蘭医学郷土文化史考』
  • 1963年(昭和38年) 『さぬきのくずかご』
  • 1967年(昭和42年) 『蘭医学郷土史雑考』
  • 1971年(昭和46年) 『本草蘭医科学郷土史考』
  • 1993年(平成5年) 木村陽二郎、遠藤正治編『医学・洋学・本草学者の研究 吉川芳秋著作集』
  • 1997年(平成9年) 『吉川文庫蔵書・蔵品目録』

職歴

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  • 1927年(昭和2年) 日本車輌製造事務見習[1]
  • 大典祝名古屋博覧会事務局宣伝部臨時雇[1]
  • 名古屋失業救済土木事業下水道工事臨時雇[1]
  • 名古屋市方面委員助成連合会書記[1]
  • 1934年(昭和9年) 瀬戸少年院矯正院書記[1]
  • 1943年(昭和18年) 瀬戸少年院矯正院教官[1]
  • 1946年(昭和21年) 瀬戸少年院庶務課主任[1]
  • 1948年(昭和23年) 瀬戸少年院庶務課長[1]
  • 1950年(昭和25年) 中部地方少年保護事務局審査部長[1]
  • 1951年(昭和26年) 保護観察官[1]
  • 1953年(昭和28年) 中部地方更生保護委員会事務局審査部第一課長[1]
  • 1959年(昭和34年) 四国地方更生保護委員会事務局審査部長[1]
  • 1962年(昭和37年) 四国地方更生保護委員会事務局総務部長[1]
  • 1965年(昭和40年) 中部地方更生保護委員会事務局総務部長[1]
  • 1968年(昭和43年) 中部地方更生保護委員会会委員[1]
  • 1971年(昭和46年) 退職[1]

栄典

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家族

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  • 実父:吉川秦五郎
  • 養父:吉川貞一
  • 妻:たい子 - 早川濱治次女。1943年(昭和18年)結婚[1]
  • 長男:修三[1]
  • 長女:和子[1]
  • 次女:淑子[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae 遠藤(1993)

参考文献

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  • 遠藤正治「吉川芳秋の経歴」『医学・洋学・本草学者の研究 吉川芳秋著作集』八坂書房、1993年