吉川五明
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吉川 五明(きっかわ ごめい、享保16年(1731年)〜享和3年10月26日(1803年12月9日))は江戸時代中期の俳人[1]。出羽国久保田藩久保田城下町(現、秋田市)の町人で、仙台藩白石の岩間乙二、庄内藩酒田の常世田長翠、南部藩盛岡の小野素郷とともに「奥羽四天王」と称せられ、名は全国に知られた[1][2]。秋田蕉風俳諧の祖とされる[1]。
人物・略歴
[編集]久保田藩(現、秋田県)の久保田城下町茶町菊之丁(現、秋田市大町三丁目)の豪商那波三郎右衛門裕祥の五男として生まれた[1][2]。幼名は伊五郎、長じて通称を庄九郎、宗七郎と改め、本名(諱)は兄之(しげゆき)、のち裕之、字は了阿。初号は鼠阿、別号は小夜庵、了閑亭、虫二房、鶴頭舅など[1][2]。18歳で同じ町内の商人吉川惣右衛門吉品の養子となり、茶紙業を営んだ[1][2]。屋号は片屋である[2]。
父の影響で幼少のときから俳諧に親しみ、美濃派や与謝蕪村を学んだが、23歳ころから蕉風俳諧を志した[1][2]。「五明」の俳号を用いたのは宝暦12年(1762年)からで、久保田藩主佐竹氏の家紋「扇に月」にちなむ[2][注釈 1]。明和年間(1764年〜1772年)以降、俳名が周囲に聞こえるようになった[1]。
天明2年(1782年)、52歳で隠居し、家督を子息に譲り、川尻村上野(現、秋田市)に小夜庵を結んで内外の著名な俳人とまじわり、門弟は数百名におよんだ[1][2]。北国の風土をうたいこめた句にすぐれたものが多い[2]。子の春朝、孫の宣大も俳人として知られた[2]。
代表的な句
[編集]- 降る中へ 降りこむ音や 小夜しぐれ
- 流れきて 氷を砕く 氷哉
- 濡れ雪の まぶたに重し 戻り馬
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 井上隆明「吉川五明」『秋田大百科事典』秋田魁新報社、1981年9月。ISBN 4-87020-007-4。
- 加藤定彦『日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年11月。ISBN 4-02-340052-1。