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吉岡稔記

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

吉岡 稔記(よしおか としき、1976年12月21日 - )は広島県出身のD1ドライバー。本業は自動車整備士で現在はアメリカに住居を構える。愛称はトシキング

人物

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日本を代表するハチロク使いの一人であり、植尾勝浩箕輪慎治らがハチロクを降りる中で、同車での参戦を続けていた。

D1へは2002年シーズンから参加。当初は師匠である神本寿と共に参戦し、プライベート仕様のオレンジ色のハチロクレビンを駆り、2003年にはシリーズランキング5位の実績がある。2004年からは、Droo-Pワークスからプロジェクトμカラー(1号機のボディーカラーは当初は白と黄緑だったが、クラッシュを機に白にピンクの文字ステッカーを貼りこんだ仕様になった)のハチロクで参戦。開幕戦から好調ぶりを見せ、第2戦を除いては全戦で予選通過を果たす。とくに第4戦では谷口信輝と決勝を闘い、僅差で準優勝になった。結果的に2年連続のシード入りを果たした。

2005年は昨シーズンまで平岡英郎が乗っていたエスペリアカラーのハチロクトレノで参戦[1]。しかし、第4戦の練習走行で大クラッシュし、車体と吉岡本人共にダメージを負ったものの決勝に勝ち上がり、日比野哲也とのサドンデスの末に初優勝を果たした。

2006年からは、外見はボンネットが黒くなった以外は大差ないものの、エンジンは260ps前後にチューニングされ、ミッションもシーケンシャル化されて素早いシフトチェンジを可能にしたニューマシンで参戦した。

2008年は第3戦まではハチロクトレノで、お台場戦からレクサス・SC430で参戦した。

2009年は前半は海外で活動し後半からマジックよりマツダ・RX-7(FD3S)で参戦した。

2010年はRX-7のロータリーエンジンを4ローターにする予定であったが、開幕戦は2ローターで参戦した。

2011年からはフォーミュラDに参戦している。2011年は自身所有のS15シルビアで参戦、2012年はRS-Rのサポートを受けVQエンジンを搭載したS15シルビアで参戦した。2013年は自身のチームを立ち上げ、北米仕様のスバル・BRZ東名パワードが販売しているコンプリート仕様のEJ25改2.6リットルエンジンを搭載して参戦している。

エピソード・武勇伝

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  • D1GPでは様々な伝説的なクラッシュをしている。
    • 2004年のお台場で行われたエキシビションでは、設置されていたウォータータンクに突っ込み破壊、その先のガードレールを飛び越えた。(これ以降お台場のコースのバリケードはコンクリートウォールになった。)
    • 2005年のお台場で行われたお台場オールスターでは今村陽一選手のFD3Sに乗り上げ車がウィリーした。
    • 先述の通り、2005年の第4戦オートポリスでは練習走行でマシンフレームが20cmずれる程の大クラッシュをし、エンジンもノーマルの物に乗せ換えられた。しかしそんな状態にもかかわらず、当ラウンドで優勝を果たした。
    • 2006年第5戦エビスではストレートで壁に接触し、そのまま1コーナーアウト側の土手に突っ込んだ。その際、1コーナー付近にあったカメラを轢き、カメラマンの膝小僧にリアバンパーを掠めていた。
  • 誰もが認めるナルシスト。(ドリフト天国DVDVol.41より)
  • 特技は「すれ違いトーク」。MSCチャレンジカップでは織戸学との掛け合いで会場の笑いを誘った。
  • スタート時に大声を出すが、これは「緊張を解きほぐし、コンセントレーションを高める」とのこと。
  • エスペリアカラーのスズキ・キャリイ(DA62T)でドリフトを披露したことがある。
  • 実はグリップ走行も得意で、EST福山が製作したマツダ・ユーノスコスモ(JCESE)のタイムアタック仕様でスーパーラップに挑戦したこともある。

脚注

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  1. ^ ただし、開幕戦では昨シーズンと同じプロジェクトμカラーのハチロクトレノで参戦した。