司馬亨太郎
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司馬 亨太郎(しば こうたろう、文久3年1月7日(1863年2月24日)[1] - 昭和11年(1936年)2月11日)は、日本のドイツ語学者。獨逸学協会中学校8代校長、理事。医学者・語学者の司馬凌海は父。囲碁棋士の喜多文子は妹。東宮御用掛、陸軍大学校陸軍教授、学習院教授、逓信官吏練習所教官を歴任。正五位勲三等。
略歴
[編集]- 文久3年(1863年):医学者・語学者の司馬凌海の長男として長崎・平戸に生まれる[1]。
- 明治16年(1883年):山口中学校教諭
- 獨逸学協会学校教諭、陸軍大学校教授を歴任[1]
- 昭和4年(1929年):獨逸学協会中学校校長
- 昭和11年(1936年)2月11日:東京帝国大学病院にて死去、享年74。
- 墓碑は東京都港区の青山霊園(一種イ6号4側)に「司馬家・小池家」として現存
栄典
[編集]親族
[編集]- 父:司馬凌海
- 妹:喜多文子 - 喜多六平太 (14世)の妻
- 妻:もと - 巌崎健造の娘[1]
著書
[編集]- 海浴要覧 (香朶棲蔵版、1888年4月)、松本順補
- 野外要務令問答 (八尾書店、1895年12月)
- 露軍の一斑 絵入 (東洋文学会、1903年11月)
- 実用独逸文法書 (南江堂、1904年1月)
- 黄金村 立志小説 (訳、博文館、1909年9月)
- 和独兵語辞彙 (精華書院、1909年12月)
- 巴爾克戦術書