右田隆次
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時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 天文20年9月1日(1551年9月30日) |
別名 | 通称:右京 |
官位 | 右京亮 |
主君 | 大内義隆 |
氏族 | 多々良姓大内氏庶流右田氏 |
父母 | 父:右田興俊 |
兄弟 | 隆次、隆俊、光俊 |
子 | 之俊、隆正 |
右田 隆次(みぎた たかつぐ)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。大内氏庶流右田氏の一門。
生涯
[編集]天文19年(1550年)8月の仁壁神社と今八幡宮で開催される例大祭に参詣する主君・義隆と相良武任を陶隆房(陶晴賢)方が襲撃するという噂が流れ、代理として隆次が参詣した。
翌天文20年(1551年)の大寧寺の変では大内義隆を守って、山口から長門国大寧寺まで義隆親子を警護し、身辺を守って討死した。
辞世の歌は「末の露本の雫に知るやいかに つひに遅れぬ世の習ひとは」。