コンテンツにスキップ

右田隆次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
右田隆次
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 天文20年9月1日1551年9月30日
別名 通称:右京
官位 右京亮
主君 大内義隆
氏族 多々良姓大内氏庶流右田氏
父母 父:右田興俊
兄弟 隆次隆俊光俊
之俊隆正
テンプレートを表示

右田 隆次(みぎた たかつぐ)は、戦国時代武将大内氏の家臣。大内氏庶流右田氏の一門。

生涯

[編集]

周防国戦国大名大内義隆に側近として仕えた。

天文19年(1550年)8月の仁壁神社今八幡宮で開催される例大祭に参詣する主君・義隆と相良武任を陶隆房(陶晴賢)方が襲撃するという噂が流れ、代理として隆次が参詣した。

翌天文20年(1551年)の大寧寺の変では大内義隆を守って、山口から長門国大寧寺まで義隆親子を警護し、身辺を守って討死した。

辞世の歌は「末の露本の雫に知るやいかに つひに遅れぬ世の習ひとは」。

参考資料

[編集]

関連項目

[編集]