厚東篤太郎
厚東 篤太郎(こうとう とくたろう、1878年(明治11年)7月22日[1][2] - 1958年(昭和33年)9月18日[1][2])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴
[編集]本籍山口県[1]、東京府出身[2][3]。厚東武直陸軍大佐の長男として生れる[1]。成城学校を経て、1898年(明治31年)11月、陸軍士官学校(10期)を卒業[1][2][4]。翌年6月、歩兵少尉に任官し歩兵第47連隊付となる[1][4]。中央幼年学校生徒隊付を経て、日露戦争に遼東守備軍副官として出征した[1]。関東都督府陸軍副官を経て、1910年(明治43年)11月、陸軍大学校(22期)を卒業し歩兵第3連隊中隊長に就任[1][2][3]。
1911年(明治44年)9月、第10師団参謀となる[1]。1912年(明治45年)3月、歩兵少佐に昇進し歩兵第6連隊付に発令[1]。歩兵第6連隊大隊長を経て、1915年(大正4年)3月、皇族付武官(秩父宮雍仁親王付)に就任[1][3]。1920年(大正9年)8月、歩兵大佐に昇進[1][3]。1922年(大正11年)8月、歩兵第37連隊長となり、第8師団参謀長を経て、1924年(大正13年)4月、陸軍少将に進級し歩兵第32旅団長に就任[1][2][3]。
1925年(大正14年)5月、陸士本科長となり、陸士幹事を経て、1929年(昭和4年)8月、陸軍中将に進み旅順要塞司令官に就任[1][2][3]。1931年(昭和6年)10月、第11師団長に親補され[1][3]、第一次上海事変により動員されたが、停戦に伴い帰還した[2]。1933年(昭和8年)3月に待命となり予備役編入となった[1][2][3]。1935年(昭和10年)12月、三笠宮家別当に就任した[1][2][3]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[5]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[8]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『日本陸海軍総合事典』第2版、68頁。
- ^ a b c d e f g h i j 『日本陸軍将官辞典』298頁。
- ^ a b c d e f g h i 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』150頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』147、150頁。
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」53頁。
- ^ 『官報』第5587号「叙任及辞令」1902年2月21日。
- ^ 『官報』第1899号「叙任及辞令」1933年5月4日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。