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博多丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
博多丸
基本情報
船種 貨客船
クラス 神奈川丸級貨客船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 日本郵船
運用者 日本郵船
 大日本帝国陸軍
建造所 D. W. Henderson社
母港 東京港/東京都
姉妹船 5隻
信号符字 HLBF[1]
IMO番号 1661(※船舶番号)[1]
経歴
進水 1896年12月21日
竣工 1897年2月
その後 1933年5月2日解体
要目
総トン数 6,151トン[2]
垂線間長 135.64m[1]
型幅 14.97m[1]
型深さ 10.3m[1]
主機関 三連成レシプロ機関 2基[1]
推進器 2軸
出力 3,100IHP[1]
速力 14.5ノット[1]
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博多丸(はかたまる)は日本郵船の貨客船で、姉妹船は神奈川丸河内丸鎌倉丸讃岐丸常陸丸

船歴

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日本郵船は欧州航路の創設に伴い13隻(予備船1隻を含む)の新造船を投入することとし[3][4]、その内訳は神奈川丸級貨客船と若狭丸級貨客船をそれぞれ6隻ずつと、予備船の信濃丸を新造することとした[3][5][6]

博多丸は神奈川丸級貨客船の2番船で[5]、スコットランド、グラスゴーのD. W. Henderson社で建造され[7]、1896年12月21日に進水。1897年2月に竣工し、1897年5月17日に横浜に到着した[2]

日露戦争で陸軍に徴傭される(1904年1月16日徴傭、1906年4月28日解傭)[8]。また、第一次世界大戦青島戦でも陸軍に徴傭され、人員2547名、馬472頭を輸送した(1914年8月19日徴傭、同年10月23日解傭)[9]

日本郵船は1916年にブラジル移民組合と移民輸送契約を結んで翌年からブラジル移民の輸送を開始し、1918年から「博多丸」はこの南米東岸線で移民輸送を行った[10]。1919年1月26日神戸発の航海では船内で流行性脳脊髄膜炎が蔓延して36名の死者が出たほか、麻疹患者も多数発生した[11]

1933年5月2日、博多丸は第一次船舶改善助成施設を適用して建造される能登丸(N型貨物船)の解体見合い船に指定されて売却され[12]、解体された[13]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h なつかしい日本の汽船 博多丸”. 長澤文雄. 2023年10月13日閲覧。
  2. ^ a b 『七十年史』62ページ
  3. ^ a b なつかしい日本の汽船 欧州航路 - 明治後期”. 長澤文雄. 2023年10月13日閲覧。
  4. ^ 『七十年史』61-62ページ
  5. ^ a b なつかしい日本の汽船 神奈川丸型”. 長澤文雄. 2023年10月13日閲覧。
  6. ^ なつかしい日本の汽船 若狭丸型”. 長澤文雄. 2023年10月13日閲覧。
  7. ^ 木津重俊(編)『日本郵船船舶100年史』97ページ
  8. ^ 『日本郵船株式會社五十年史』200ページ
  9. ^ 『日本郵船株式會社五十年史』277ページ
  10. ^ 『我社各航路ノ沿革』333ページ、『七十年史』133ページ
  11. ^ 山田廸生『船にみる日本人移民史』139ページ
  12. ^ #船舶改善助成施設実績調査表 pp.2-6
  13. ^ 『七十年史』679ページ

参考文献

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  • 貨物課(編)『我社各航路ノ沿革』日本郵船株式會社貨物課、1932年
  • 木津重俊(編)『日本郵船船舶100年史』世界の艦船・別冊、海人社、1984年、ISBN 4-905551-19-6
  • 日本郵船株式會社(編)『日本郵船株式會社五十年史』日本郵船、1935年
  • 日本郵船株式会社(編)『七十年史』日本郵船、1956年
  • 山田廸生『船にみる日本人移民史』中央公論社、1998年、ISBN 4-12-101441-3