千葉衛 (洋画家)
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千葉 衛 (ちば まもる) | |
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生誕 |
1911年 宮城県遠田郡田尻町(現在の大崎市) |
死没 |
1973年 宮城県 |
国籍 |
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出身校 |
宮城県古川高等学校 東京美術学校(現在の東京芸術大学) |
著名な実績 | 洋画 |
受賞 | 第15回帝展入選 |
選出 | 光風会会員、東光会会員 |
千葉 衛(ちば まもる、1911年 - 1973年[1])は、日本の画家、美術教育者。現在の宮城県大崎市出身。
略歴
[編集]幼少期・学生時代(1911年 - 1930年代)
[編集]宮城県遠田郡田尻町(現在の大崎市)に生まれる。幼少期から絵画に興味を持ち、地元の小学校・中学校で才能を発揮した。旧制古川中学校(現在の宮城県古川高等学校)を卒業後東京美術学校(現在の東京芸術大学)に進学し、洋画を学ぶ。在学中から光風会や東光会に作品を出品し、頭角を現した。1930年代には帝展(帝国美術展覧会)に初入選し、画家としての将来が期待されるようになる。しかし、当時の日本は戦争の時代に突入し、画家としての活動が制限される状況となる。
戦時中・台湾時代(1930年代後半 - 1945年)
[編集]東京美術学校研究科に進学したものの、戦時下の影響もあり研究科を中退した。その後台湾に渡り、現地で美術教育に携わる。日本統治下の台湾では、西洋美術の技法を学ぶ機会が限られていたが、千葉衛はそこで美術教師としての経験を積みながら、独自の制作活動を続けた。しかし、1945年(昭和20年)の日本の敗戦により、台湾からの引き揚げを余儀なくされ、故郷の宮城県へ戻ることとなる。
戦後の活動(1945年 - 1973年)
[編集]戦後の混乱の中、千葉衛は宮城県仙台市に拠点を移し、美術教育者として活動を再開する。当時の仙台では戦災によって文化・芸術の復興が求められており、彼はその再興に尽力した。特に光旗会の結成に関わるなど、地方美術界の振興に大きな役割を果たした。光旗会は、戦後の宮城県における美術家たちの交流・発表の場として機能し、多くの若手画家を育てることとなった。また、光風会や東光会の展覧会にも出品し続け、宮城県内外でその作品は高く評価された。彼の作風は、フランス印象派の影響を受けながらも、東北地方の風土を色濃く反映したもので、特に風景画に優れた作品を残している。1973年(昭和48年)、62歳で死去した。
作風と影響
[編集]千葉衛の作品は、西洋絵画の技法を基礎としながらも、東北の自然や日本人の感性を表現することに重点を置いた。印象派の影響を受けつつも、色彩の重なりや筆遣いに独自の特徴があり、東北地方の空気感や湿度を感じさせる作品が多い。また、美術教育者としても多くの若手画家を育成し、宮城県の美術発展に貢献した。その影響は、のちの宮城県出身の画家たちにも見られる。
時代背景
[編集]千葉衛が生きた時代(1911年 - 1973年)は、日本の洋画界にとって大きな変革の時期であった。
明治期 - 大正期(1911年 - 1920年代)
[編集]黒田清輝らによってフランス印象派の影響が広まり、日本の洋画が発展した。
昭和初期(1930年代)
[編集]文展・帝展を中心に、洋画が本格的に日本に根付く。千葉衛もこの時期に活動を開始した。
戦時中(1940年代)
[編集]戦争の影響で、美術活動が制限される。戦争画の制作を求められる画家も多かったが、千葉衛は台湾で教育に従事した。
戦後復興期(1950年代)
[編集]戦後の混乱の中、地方美術界の復興が進む。千葉衛も仙台で美術教育と創作活動を行う。
高度経済成長期(1960年代)
[編集]経済成長とともに、美術市場も活性化した。しかし、東京を中心とした美術界に対し、地方の画家の活動はやや影が薄くなる。千葉衛は、戦争による混乱を経験しながらも、地方美術界の発展に尽力した画家の1人といえる。
受賞歴
[編集]- 第15回帝展入選
代表的な絵画作品
[編集]千葉衛の作品は、現在も宮城県内の美術館や個人蔵として残っているとされるが、大規模な回顧展は行われていない。そのため、美術市場などで作品が出回ることは少ない。
脚注
[編集]- ^ “中野和高と大正・昭和期の宮城の洋画家”. UAG美術家研究所 (2021年7月6日). 2025年2月13日閲覧。