北角富士雄
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 愛知県名古屋市緑区鳴海町 |
生年月日 | 1947年5月17日 |
没年月日 | 2008年9月16日(61歳没) |
身長 体重 |
172 cm 76 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1965年 ドラフト外 |
初出場 | 1966年 |
最終出場 | 1968年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
この表について
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北角 富士雄(きたかど ふじお、1947年5月17日 - 2008年9月16日[1])は、愛知県名古屋市[2]出身のプロ野球選手(投手)。
来歴・人物
[編集]東邦高校では甲子園に2回出場。2年生の時、1964年春の選抜に遊撃手として出場。1回戦で水沼四郎、基満男らがいた報徳学園に9回サヨナラ負け[3]。翌1965年夏の選手権にはエースとして出場。準々決勝まで進み、高鍋高の牧憲二郎と投げ合うが完封負けを喫する[4]。この大会では、選手宣誓を行った。同年秋の岐阜国体にも出場するが、1回戦で銚子商の木樽正明に抑えられ1-2で惜敗。
1965年のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから3位指名を受けるが交渉権放棄となり、同年にドラフト外で中日ドラゴンズへ入団[2]。
スライダーやシュートを武器に、1年目の1966年は22試合に登板して6勝を挙げる[2]。1967年は20試合、1968年は44試合に登板した。
肩の故障もあって1969年からは一軍での登板機会が無く、1970年の第1回選抜会議(トレード会議)の対象となり、1971年からは阪急ブレーブスに移籍した。しかし、ここでも二軍暮らしに終始し同年限りで引退した。
引退後は会社員となる。2008年9月16日に心不全のため、61歳で亡くなった。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1966 | 中日 | 22 | 1 | 0 | 0 | 0 | 6 | 3 | -- | -- | .667 | 220 | 54.1 | 34 | 1 | 22 | 4 | 4 | 32 | 1 | 0 | 9 | 7 | 1.17 | 1.03 |
1967 | 20 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | -- | -- | .000 | 145 | 31.2 | 37 | 5 | 10 | 2 | 2 | 16 | 1 | 0 | 29 | 22 | 6.19 | 1.48 | |
1968 | 44 | 1 | 0 | 0 | 0 | 3 | 1 | -- | -- | .750 | 317 | 79.1 | 60 | 15 | 23 | 4 | 4 | 60 | 0 | 0 | 31 | 31 | 3.53 | 1.05 | |
通算:3年 | 86 | 3 | 0 | 0 | 0 | 9 | 6 | - | -- | .600 | 682 | 165.1 | 131 | 21 | 55 | 10 | 10 | 108 | 2 | 0 | 69 | 60 | 3.27 | 1.13 |
背番号
[編集]- 47 (1966年 - 1970年)
- 41 (1971年)
脚注
[編集]- ^ “OB NEWS Vol.40” (PDF). 公益社団法人全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ) (2008年12月). 2021年10月16日閲覧。
- ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、182ページ
- ^ 「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年
- ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 北角富士雄 - NPB.jp 日本野球機構