北条新九郎 (氏政長男)
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 弘治元年11月8日(1555年12月20日) |
死没 | 弘治3年(1557年)? |
氏族 | 後北条氏(桓武平氏) |
父母 | 父:北条氏政、母:黄梅院(武田信玄の娘) |
兄弟 |
新九郎、氏直、太田源五郎、氏房、千葉直重、直定、妹(千葉邦胤室) 義妹:鶴姫(里見義頼正室) |
北条 新九郎(ほうじょう しんくろう)は、戦国時代の後北条家の一族。北条氏政の子で、北条氏康の孫。武田信玄(晴信)の外孫に当たる。
生涯
[編集]弘治元年(1555年)11月8日に、北条氏政とその正室である黄梅院の長男として生まれた[1][2]。『勝山記』には「甲州晴信公御満足大慶此の事に候」とあり、晴信は長女の黄梅院が無事に子供を産んだこと、しかもその子が将来後北条家の跡取りとなり、武田家と北条家の友好が永続するであろうことを喜んだという[2]。
弘治3年(1557年)11月19日、晴信は「晴信息女北条氏政妻、産に当たり平安に無病延命ならば、則ち来る歳戊午夏6月より長く船津の関鎖を抜くべし」と、富士浅間大菩薩に黄梅院の安産を願った(『冨士御室浅間神社文書』)。これは黄梅院の安産と無病で延命するようにとの願いをこめて、翌年(永禄元年(1558年))から永く富士参詣の人々が通る船津(現在の山梨県南都留郡富士河口湖町)の関所を廃止するというものである[3]。
この新九郎はその後史料に登場しない上、晴信がこのような願文を提出していることから、夭折したものと推測されている[1][2]。のち、永禄5年(1562年)に生まれた同母弟が新九郎の仮名と氏政嫡男の座を継ぎ、氏直と名乗って氏政の跡を継いだ。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 書籍
- 史料
- 『勝山記』
- 『冨士御室浅間神社文書』